1、宇治編 2、東山編

  第一部 宇治編
 このコンテンツは単なる京都観光ではなく、実は時代の文化様式を検証してみようという試みなんです。「宇治」や「東山」も京都の人気観光ポイントを不作為に並べてある訳じゃなくて、それらは勿論「地名」で もあるんだけど、その時代の文化様式を象徴するようなものでもあるでしょう。日本史を調べてみると、ちゃんと宇治時代、東山時代と呼べるような時代がある。つまり、日本国中いろんな「地名」のある中で、「宇治」がそれらを 代表しちゃうような時代、「東山」がそれらを代表しちゃうような時代があったという意味でなんだけどね。
それから、なおかつ日本史には「宇治」と「東山」で共通する要素があるんです。何だと思いますか?両時代は日本史の黄金時代のポストとして現れているんですね。しかも、黄金時代の単なるパロディで終わってるんじゃなくて、 新しい時代の文化様式がきちんと確立されているんです。「宇治」と「東山」はそんな時代の夢のあとなんだけれども、その現在の表層を細密にチェックする事で、深層に横たわる文化様式の実体を認識して、その2つの時代が共通し た構造を持っている事を暴き出してしまおうというコンテンツが、この宇治東山通信という事になります。
 あと補足しておくと、「宇治」と「東山」は日本の中央集権的な政治上の首都と必ずしも一致している訳じゃなくて、よく見るとずれていたりするんです。文化首都という言葉があるかどうか知らないけれど、表層的機構として政 治首都が日本全土を津々浦々まで統治しようとする力に拮抗して、集合的無意識みたいなもので形成された文化首都が存在していると言えるかもしれません。
 とりあえず、この第一部では宇治について、しつこく見ていく事にしましょう。
 まず、京都ビギナーの人のために「宇治」の地理上の位置を簡単に説明しておくと、京都市の南側にある宇治市がそれにあたります。「宇治」は京都府下の市町村の一つであって、いわゆる千年の都とは別物という事になりますね。現在の京都御所は勿論京都市内にあって、平安京の昔から政治上の首都という事になるんですね。
 平安時代およそ400年の絶頂が藤原道長がいた頃であるというふうに考えられるんですが、それは日本の古代史全体を見渡しても納得のいくところでしょう。まさに黄金時代と呼ぶにふさわしい訳なんですが、この時代の文化様式 は誰によって代表されるかと言えば、答えは一つしかありません。それは光源氏です。
こう断定してしまうと、彼は実在の人物ではないじゃないかと反論する方もいらっしゃるとは思いますが、この時代は光源氏という不在の文化王権を設定する事で、その文化様式を理解出来るような時代だったという事です。道長を はじめとする実在のモデルが複数いるんですが、誰か一人にしぼってしまうと、何かを落してしまうという不具合が生じてしまう。現世浄土を体現するような超人を一人だけ作り出すことで、この黄金時代の文化様式の理念が最も完 全に表現出来てしまうとしたら、そこに「物語」の形成意志が生まれても何の不思議もないではありませんか。このように現実の摂関政治とは少しずれたところで美の王朝が存在し、それが貴族社会の拠り所になっていたんですね。
 この33歳で太政大臣となる超人は六条京極あたりに大邸宅を建造し、あちらこちらに散在する女人達を殿移りと言って、一つ屋根の下に同居させます。その大邸宅は六条院と呼ばれますが、これは准太上天皇の待遇を得た光源氏の 院号でもあって、現実の政治における摂関から院政へのシフトという現象をも予言するものであるとも見る事が出来ます。現実の御所と不在の六条院の関係は、その後の日本史にも様々な形となって反復される事になります。「物語」の中の六条院を現在の現実の地図上で探ってみると、そこは本当に夢のあとというべきで、その痕跡は全く見当たりません。鴨川の西側、五条と七条の間、道路地図を目を皿のようにして探すと、なんと六条院小学校なるものが実在していました。そこから程近くには五条楽園。
それが古の優雅の名残なのかもしれません。

 さて、随分と長い前置きになってしまいましたが、いよいよお待ちかねの「宇治」の出番と相成ります。
それは、ポスト光源氏の時代、つまり宇治十帖の時代なんですね。現実には、道長の息子、頼通の平等院がその世界のランドマークになっています。
 ここからは写真でも見ながら、有名観光ポイントをさらっと見ておきましょう。

☆宇治のスタート地点
 お車での観光もいいのですが、このコンテンツはそんなに親切ではありません。電車で行って、現地ではゆっくり歩いて散策しましょう。交通アクセスはなんと言っても、京阪とJRが 便利。
それぞれ駅周辺はこんな感じかな。おまけにJR駅前にある案内板の地図もつけておきますが、パソコン画面で見えるでしょうか?

JR宇治駅 ←JR宇治駅


京阪宇治駅
京阪宇治駅



宇治橋通り
どちらでもお好きな方で→
宇治橋


宇治川周辺地図
地図


宇治橋
宇治川
 宇治橋は、大化2年(646)に架けられた日本最初の本格的橋梁。近江遷都以後、宇治は大和と近江を結ぶ交通の要衝として平安貴族の別荘が立ち並 ぶようになり、この橋も宇治のシンボルとして古今和歌集や源氏物語の文学作品に描かれています。


☆平等院(世界文化遺産)
 10円玉でおなじみの建物は鳳凰堂またの名を阿弥陀堂と言って国宝になっています。もともとは光源氏のモデルの一人とも目される源融の別荘だったのが、藤原道長の所有となり、永承7年(1052)に道長の子頼通が別荘地に本堂を建立するなどして寺に改めたのが、そもそもの始まりです。
 道長時代は文化の華開く古代の黄金時代だったのですが、釈迦入滅後2000年で仏の教えが廃れてしまうという末法思想が流行して、まさにその入り口と考えられた年に藤原一族の底力を以ってして、現世に西方極楽浄土を作ってしまおうという一種のユートピア二ズムだったんですね。
 なお、平等院境内には地層のように異なる時代の遺構があって、創建当時のままに現存しているのは鳳凰堂、そして鎌倉時代に再建された観音堂と鐘楼、一番新しく完成されたものとして2001年3月1日、宗教法人としては全国初の登録総合博物館「鳳翔館」があります。既に21世紀型のテンプルミュージアムとしてオープンしているそうです。

平等院(一日舞妓) ←京都の観光地では、時折、舞妓はんを見かける事がありますが、一般人が衣装をレンタルして 平等院
平等院庭 制限時間内を散策出来るというサービスがあるため、偽物のなんちゃって舞妓はんと区別がつかなかったりしますので要注意! 平等院建物

☆宇治上神社(世界文化遺産)
 この神社の本殿と拝殿はともに国宝で平安時代に造られた、現存する日本最古の神社建築です。御祭神は応神天皇(父)、仁徳天皇(兄)、菟道稚郎子(弟)、3社で1つの本殿になっています。弟は父に愛されて皇太子に立てられ たのですが、自殺して皇位を兄に譲ったという記紀伝承上の話があるようです。
 それから、宇治上神社とは別にもう一つの宇治神社があるんですが、昔は両方ともに宇治神社とされて、上社、下社と呼ばれていたのが、明治時代になって分離されたという事です。こちら(下社)の方の御祭神はどうやら弟のみ のようで、宇治の地名はこの皇子(うじのわきいらつこ)の名前から付けられたとされているようです。
宇治上神社
宇治上神社(国宝)→
宇治上神社札

宇治上神社の庭
宇治神社(重文)

☆宇治市源氏物語ミュージアム
 1998年11月に源氏物語をテーマとした、街作りのふるさと創生事業の中核をなす施設として、オープンしました。自治体主催文学賞として、紫式部文学賞も制定されています。常設展示室には六条院の縮小模型があり、映像展示室では篠田正浩監督による映画「浮舟」を上映しています。その他にも、「チャレンジ!源氏物語クイズ」「性格診断テスト」などのクイズやゲーム、喫茶コーナー、図書室、講座室があります。
    
開館時間 午前9時〜午後5時
(ただし、入館は午後4時30分まで)
休館日  月曜日(祝日の場合は翌日)、年末、年始

展示観覧料
個人 団体(30人以上)
大人 500円 400円
小人(小、中学生) 250円 200円

源氏物語ミュージアム入り口 ←正面玄関

裏口
源氏物語ミュージアム石碑

☆宇治市観光センター
 情報源はここでゲット、観光資料を配布展示し、無料休憩所や土産の販売もあります。また、その東隣には宇治市直営の数寄屋造りの茶室、「対鳳庵」があります。お茶の心得がなくても大丈夫、先生が優しく指導してくれます。 10人以上の場合は要予約となりますが、基本的にはぶらりと立ち寄っていいみたいで、外国人観光客にも人気です。
宇治市観光センター
対鳳庵
対鳳庵

地図

☆平等院表参道
 京阪宇治駅から見ると宇治橋を渡って、左手すぐに現れます。
お食事処や土産物屋などが立ち並ぶ通りですね。表参道はやがて橘橋へと続き、宇治川に浮かぶ中の島、そこから朝霧橋を渡ると宇治川の対岸に出て、宇治神社、宇治上神社へと続きます。
 表参道には将軍家御用御茶師の三星園上林三入本店がありますが、こちらでは宇治茶資料室を無料公開しています。写真はそのお隣のお店。白壁の土蔵が素敵です。

おもしろ民芸館 お茶屋


☆中の島(橘島と塔の島)
 宇治川の中州として2つの浮島から成立していて、橋で連結された中の島を宇治公園と呼んだりもするようです。橘島には宇治川先陣の碑があります。「平家物語」の名場面として知られ、梶原景季と佐々木高綱が渡河一番乗りを 競った場所とされています。塔の島の中央には重要文化財の十三重の塔があります。これは弘安9年(1286)に宇治橋を架け替える時に、宇治橋が度々流出してしまう原因は魚を乱獲する事の祟りであると考えた奈良西大寺の僧が、 魚供養のために建立したものであると伝えられています。
 また朝霧橋を渡った宇治川右岸のあたりには宇治十帖モニュメントもあります。記念撮影にちょうどいいですよ。

十三の塔 宇治川先陣の碑

宇治川の源氏物語モニュメント 宇治公園

天ヶ瀬のつり橋☆天ケ瀬森林公園
 宇治川を上流に向かって歩くと、天ケ瀬吊橋、やがては天ケ瀬ダムが現れ、素晴らしい自然の宝庫が待っています。文化の果つるところ自然ありといった気分ですね。森林浴やバードウォッチングをお楽しみ下さい。

 他にも宇治川マラソン(毎年2月上旬)のスタート地点となる山城総合公園太陽が丘や宇治市植物公園など見所満載です。









☆山宣祭と生長の家宇治別格本山
 宇治の近代史に視点を移すと2つのポイントを発見する事が出来ます。私は両方ともに関係者ではありませんが一観光者として簡単に紹介しておく事にしましょう。
 まずは山宣祭ですが、社団法人宇治市観光協会の作成した宇治イラスト・マップを駅や観光センター等で入手出来ると思うんですが、その裏面には宇治の四季主な年中行事予定というものが記載されてあって、その中に3月5日善法墓地にて山宣祭という具合にちゃんと印刷してあります。その他にも8月17日〜19日は生長の家盂蘭盆供養大祭というものもあります。
 山宣は私が調査したところ、どうも人名らしくて、フルネームを山本宣治、明治22年(1889)〜昭和4年(1929)に在世した学者出身の国会議員であったという事です。今も宇治川左岸にある料理旅館「花やしき浮舟園」の若主人でもあり、ここには数多くの文人墨客が訪れ、その中の一人でもある竹久夢二は2代目女将にして山宣夫人の千代をモデルに絵を画いています。夢二はまた山宣の神戸中学時代の先輩にあたるといいますから、親交も深かったのかもしれませんね。京大、同志社で生物学(人生生物学)を教え、性教育啓発家として活動、労働者、農民の中にあって産児制限運動を始め、労農党代表として衆院選に当選して間もなく、テロリストに暗殺されて39歳の生涯を終えました。その墓碑銘には「山宣ひとり孤塁を守る だが私は淋しくない 背後には大衆が支持しているから」と刻まれてあります。

山宣の墓 表 ←表

裏→
山宣の墓 裏

生長の家
 次に生長の家ですが、谷口雅春が昭和5年(1930)3月に「生長の家」誌を創刊したところから歴史が始まったという事です。その境内に昭和36年8月、檜造りの供養塔が建って、この年の盂蘭盆供養大祭で流産児霊牌が泰安されるようになりました。昭和40年10月には、檜造りの供養塔にかわって御影石の供養塔が建立されて、その上に慈母観世音像が安置されて現在に至るという感じみたいです。この行事の第1回は昭和31年に執り行われたという事ですが、なんだか仏教的ですね。昭和38年には精霊招魂神社を建立し、国内外を問わず大東亜戦争で亡くなった一切の御魂をお祀りしているそうです。この神社はどこにでもありそうなごく普通の神社で、私も宇治東山通信執筆にあたって、中の様子を見て来ました。君が代でおなじみのさざれ石があるんですが、これはとても興味深いものでした。戦没者の御魂の前なので、私は手を合せる事も忘れませんでした。


さざれ石の立て札 さざれ石
これが、さざれ石だ。写真の中にある立札を大きくしたのが、上・右側の写真です
2003(平成15).10.10

第二部 東山編に続く

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