日本映画の幻

昭和史の語り部 黒澤明

 日本映画を代表する黒澤明(明治43年〜1998)は世界映画史上においても、最大の作家の一人であることは誰しも認める 事実であろう。およそ半世紀の長きにわたって、質量ともにこれだけの高度な作品群の完成を得た業績は否定出来まい。生涯に全30作を世に送 り出した訳だが、その主題から表現手法に至るまで実に多彩で、一作々々が独立した個々の世界観を持つ作品となっている。しかし、これらの 作品群は全作が相互に連関することで、一つの巨大な神話世界を構築しており、偉大な才能をし想主義的な発展史観(若き日に影響を受けたマ ルキシズムにも共通性のある)の構造を持ち、一個の世界精神が時代を常に更新すべく成長し、その成長の臨界点を超えると世界は急カーブを 描いて脱構築され、コスモスからカオスへ雪崩れる中で、まさに希望は過去にしかないと意識されるような世界観を内包しているのだ。
 黒澤明には昭和史に対する神話的領域への洞察がある。記紀神話に見られる三部構成(神々から英雄、そして人間の時代 へ)を昭和史に照応させて昭和20年までを前期、昭和45年までを中期、そして昭和64年までを後期とし、黒澤全30作も三部構成を取る事で、そ れぞれの時期に対応するようになっている。昭和前期は高天原なる絶対不可侵の皇室を載き、臣民は神話的時代を生きていたのであり、昭和18 年の黒澤初監督作品「姿三四郎」は柔道を通して大和魂なる武士道を鼓吹する国策映画としての側面を否定できないものとしてあった訳である。
 スポーツはプロパガンダとして利用し得る最大のものであると証明してみせたのは、言うまでもなく1936年のベルリン・オ リンピックであるが、昭和16年当時、黒澤の恋人であった高峰秀子の自伝によると、レニ・リーフェンシュタールのオリンピック記録映画「民 族の祭典/美の祭典」('38年)をロケ先の盛岡で二人一緒に見ており、自らもいつかはオリンピックを撮りたいものだ、そして柔道が正式種目 と認められ、大和魂が金メダルに輝く絶頂を映像に永遠化してやろうという野心に燃えながら、高峰秀子と映画デートしていたに違いない。 「姿三四郎」は富田常雄の大衆小説が原作であり、戦後には富田の作品と同名タイトルの「柔」を歌って美空ひばりが昭和40年(東京オリンピックの 翌年だ!)のレコード大賞を受賞している事も記憶しておくとよいだろう。高峰と別れた黒澤は第2作目の「一番美しく」(昭和19年)の主演女優 矢口陽子と結婚し、第3作目として「続姿三四郎」(昭和20年)を撮り、主人公に異種格闘技戦をやらせて、あらゆる格闘技ジャンルの頂点に柔 道(=日本)を置いているのは、戦後におけるアントニオ猪木の異種格闘技戦とモハメッド・アリ戦を記憶する者には、ストーリーの先祖帰り を見る思いがする事だろう。
 終戦後最初の作品は早くも昭和20年9月に制作され、時代劇であった関係上、G.H.Qの許可が得られず、劇場公開は昭和27 年4月を待たねばならなかった。この作品、「虎の尾を踏む男達」は義経と弁慶という副題もあるように、英雄の不死伝説である。日本は戦争に敗 れたが、死んだ訳ではない、占領下にあって未公開であった同作には、敗戦にあっても分断され得ない「昭和」の一貫性が秘めやかに主張されて いたのである。次の「我が青春に悔いなし」(昭和21年)は、天皇が人間宣言し、G.H.Qの後押しもあった南朝末裔を自称した熊澤天皇も出現し得 た、日本の最もアナーキーな時代背景の落し子である。物語は戦前の京大滝川事件やゾルゲ事件を下敷きとした反戦映画だが、恋人と死別して 主体的に生きるヒロインに黒澤の共感がある。黒澤第一期目の最後の作品は「素晴らしき日曜日」であり、ようやく神々の時代から英雄の時代へ とステージは移動する。戦後復興の生命力それ自体のような野獣のような男、黒澤は三船敏郎という素材と運命の出会いを得て、銀幕も狭しと 大暴れさせる事になるのだが、この三船敏郎の黒澤映画初出演作品「酔いどれ天使」(昭和23年)が第二期─英雄の時代─のスタートである。大陸 に逃れた義経は英雄としてたくましく成長しジンギスカンとなって、敵の本陣(ハリウッド)に戦闘開始するのである。「酔いどれ天使」の映像は、 戦後の焼け跡、闇市を濃密に写し出して、今見ても、鮮烈だ。笠置シズ子は黒澤作詞の「ジャングル・ブギ」を歌い踊り、ヒロポン中毒のヤクザ に扮する三船は眼光鋭く、這いずり回る。この昭和23年に太宰治は死に、美空ひばりがデビューする。大蔵省の高級官僚という仮の姿になって いた日本浪曼派の恐るべき子供は、暴走機関車さながらエリートコースという名のレールを粉砕し、翌年の三鷹事件を予行練習してみせるに及 んで、黒澤の目は釘付けにされていた。もはや、黒澤の脳裏にあるパンドラの箱は開けられたのである。
 三船敏郎は明智小五郎かピンク・レデイーの「渚のシンドバッド」みたいに変幻自在の大活躍を見せて、ある時は「野良犬」 (昭和24年)の刑事となり、ある時は「静かなる決闘」(昭和24年)の医者となり、「醜聞」(昭和25年)では旧満映(理事長はあの大杉栄殺しの悪名高き 甘粕正彦元憲兵大尉!)の看板女優の李香蘭こと山口淑子との恋のスキャンダルが発覚してしまうという画家にまで変身。
 そして、芥川龍之介原作の「羅生門」(昭和25年)は日本映画が海外での初の栄冠に輝くという記念碑的名作である。ベネチ ア国際映画祭はスペクタルを好むベニト・ムッソリーニがイタリアに古代ローマ帝国の栄光をもたらそうと考え、国産映画のトーキー化を促し、ローマ郊外にチネチッタ撮影所を建設し、1932年に開設した、世界でも最も古い映画祭である。黒澤がハリウッドに戦闘開始するに際して、まず手始めにイタリアと軍事同盟を結んだと言えば、ユーモアもブラックに過ぎるだろうか。三船演ずるところの盗賊は森雅之と京マチ子の旅の夫婦を襲い、無理矢理に人妻を盗んでしまう。渚のシンドバッドなら、♪唇奪う早技は噂通りだわ、あなた、シンドバッドー!セクシー、あなたはセクシー、私はイチコロでダウンよ、と歌われる場面である。恐ろしいまでの心理劇は見る者を沈黙させる。
 続く作品はドストフエスキー原作の「白痴」(昭和26年)である。ここでも三船敏郎はヒロインを原節子にかえて永遠のライ バル森雅之と極限的三角関係の恋のバトルを演じることになる。森雅之はイノセントな少年のような男で、どんな女も母性本能をくすぐられて しまう。そんな森に、男の三船でさえもが、人間的魅力に圧倒されてしまう程なのだが、恋愛ターミネーターたる三船はヒロインを完全に独占 するために殺してしまう。一人の女を愛し、お互いの心を知る男達は極寒の北海道で毛布一枚にくるまっている、というシンボリックな描写で 映画はエンディングをむかえる事となる。同作はあるいは黒澤の「仮面の告白」とも呼び得るものであろう。
 「生きる」(昭和27年)は、第二期黒澤映画にあっては、珍しく三船(=英雄)の出ない作品である。同作はアプレゲールに共 通して見られる実存主義的なテーマを持ち、余生をいかに生きるか?という黒澤のヒュ−マニスティックな味わいが特徴的な作品である。ミイ ラとあだ名される地方公務員がガン告知を受けて、生命力あふれる超人に変身するというのは、黒澤の死の美学の解釈とも考えられる。ヴィジ ュアルの問題として、三船はミイラには見えないだろうから、今回に限り主人公を降ろされたのであろう。おかげで、志村喬(たかし)は代表 作を得る事になった訳だから、皆、納得の人事だ。そして、ついに日本映画の金字塔、不滅の名作「七人の侍」(昭和29年)だ。同作は海外で盗作 された「荒野の七人」も大ヒットしたというエピソードはあまりにも有名で、主演のユル・ブリンナーは「七人の侍」の志村喬を見て、スキン・ヘ ッドにしたぐらいだから、相当インパクトがあったのだろう。サムライ、世界の三船は圧倒的な存在感を持つに至り、同じ昭和29年には「潮騒」 で船乗りの役を演じ、志村喬は「ゴジラ」で博士の役を演じている。黒澤明の絶頂期は他の全ての映画人を刺激して、そのまま日本映画の黄金時 代であった。三船がサムライと呼ばれたように、この時期より黒澤は映画界において(天皇)と呼称されるようになる。彼はついに、批判する事 さえ許されぬ絶対不可侵の存在となった訳である。

(訂正: 読者の方からご指摘を頂いたのですが、本文中の「荒野の七人」が「七人の侍」の盗作であるという箇所に関して 、ユル・ブリンナーが翻訳・映画化権を正式に買い取った上での制作であったので盗作というのは当たらない、「荒野の用心棒」は「用心棒」 の盗作であるとの抗議を受けて謝罪したという事実がある、との事です。以上の内容については色男NO.1が直ちに調査しその旨を後日報告する 事とします。)

(つづく)
スタッフA(色男NO.1)記

前に戻る

映画の国へ戻る