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民衆

 シェイクスピアも、ゲエテも、李太白も、近松門左衛門も滅びるであろう。
しかし芸術は民衆の中に必ず種子を残している。私は大正12年に「たとい玉は砕けても、瓦は砕けない」という事を書いた。この確信は今日でも未だに少しも揺がずにいる。

 打ち下ろすハンマアのリズムを聞け。あのリズムの存ずる限り、芸術は永遠に滅びないであろう。(昭和改元の第一日)
 わたしは勿論失敗だった。が、わたしを作り出したものは必ず又誰かを作り出すであろう。一本の木の枯れることは極めて区々たる問題に過ぎない。無数の種子を宿している、大きい地面が存在している限りは。(同上)
芥川龍之介「侏儒の言葉」より
 

文学は死んだと言われて久しい。が、その恐ろしい死の最も早い兆候が芥川の死の頃には既に現れていたといえば、人は驚くであろうか。引用された芥川のアフォリズムには、極めて暗示的な文学の敵についての指摘があり、その敵に制圧されるかに見えた文学の最後の希望までが記されている。当時について簡単な復習をしておくと、大正十二年の関東大震災で厳密な意味での「大正」は幕をおろし、西欧19世紀のコピーに開花した近代市民文化、白樺派に代表されるブルジョワ文学も終焉している。帝都復興では同時にナショナリズムと民族のアイデンディティーを構築するために、物語=神話を必要とし、国家目的のための大衆動員にマス・メディアが利用される構図、ここに高度大衆化社会も起源を持っている。一例を挙げれば、大正14年、東京放送局でラジオの本放送を開始したり、大正15年に改造社の「現代日本文学全集」、いわゆる一冊一円の「円本」で大衆層に文学の読者を拡大したりで、さまざまなメディアが連動し合って大衆の意識に多大な影響力を持つ、今日の高度大衆化社会が原初的な形であるが萌芽を見せ始めていたのである。そうした背景を踏まえた時、文学は死んだという事象は活字メディアとしての文学は死んだ、というふうに理解されていいだろう。
昭和初期、芥川の死にシンボライズされるような文学の死は、何か不吉なしみのように当時のインテリゲンチャに認識され始めたわけだが、その死の一般的な認知、普遍化されるに到るまでには、われわれはあの1970年(昭和45年)を待たねばならない。
自らを生活的宦官と冷笑してみせる程に芥川には、私小説家のような生活が欠如していた。鴎外、漱石的な近代人としての自我は「或る日の大石内蔵助」や「将軍」に見られるような偶像破壊とアンビヴァレンツな憧憬を併せ持ち、一種の生活人としての自己回復の欲求から、ほとんどそれに同一化せんとする意志までも持ち合わせていた。告白するに足る「私」が不在しているのならば、自らを前近代的なあまりに前近代的な物語類型に、批評的知性の笑いの種にしか過ぎない、一片のリアリティもない「河童」の如き架空の存在になり、その死を残された者への置き土産としようではないか。芥川の自裁はその意図に反して物語的身体、有効なボディ・ランゲージを持たなかった知識人の敗北の歌であった。しかし、彼はその死に際して、失敗した魂、それがまた別の形となって現れないと誰が言えるであろうかと考えた。私が初めに芥川の文章を引いて、自らの敗北宣言と未来への希望をそこに読み取ったというのは、まさに芥川的命題の反復が以後もまた起り得るであろう事を解読したという事である。
芥川の死は、次なる人物を準備している。芥川をこよなく愛した男は、まずそのパロディたる事で文学的に生きようとした。芥川の神経症的な晩年の初作品より、太宰治の文学的人生は始まったといったのは、福田恒存である。

架空の人物でありながらドン・ファンは古来より多くの芸術家にインスピレーションを与え、実生活にあってドン・ファンたらんとする模倣者をほとんど無数といえる程に輩出してきた。17世紀のティルソ・デ・モリーナの戯曲「セビリアの色事師と石の招客」に初めて登場して以来、モリエール、モーツァルト、プーシキン、バイロン、時間のふるいにかけられて、あたかも歴史的なリレー形式によって、各時代を代表する表現者の共作によって、一つの巨大な「ドン・ファン」伝説が構築されて来たかのような印象さえ抱かされる。彼が征服する女の数も最初の作品では4人にすぎなかったが、モーツァルトのオペラの台本を書いたダ・ポンテの頃には、スペインだけで1003人というおよそ疲労を知らぬ超人的数になっている。
この帰る港を持たぬ性愛の天才とも言うべき独身者は恋愛を日常とする非定住者であり、彼が誰に似ているといって、おそらく多くの表現者達の胸に去来するのは茨の冠を戴き十字架を背負ったあの人をおいて他にないだろう。実在し得ぬものが現実的に存立するという奇跡、これを一度許容してしまうと、この世を大本において構成する体系を全く別の原理が被い尽し、義のために遊ぶものがすべて生産に従事する常人をあたかも古代ギリシアの奴隷のように見せてしまいはせぬであろうか!
近代的自我の確立と罪の関係を追求して、必然的に三角関係を招来するものとしての恋から則天去私に救いを求めた漱石の問題を継承して、王朝期の色好みに取材してエゴイズムの問題を主知的に盛り込んだ芥川もまた、ドン・ファンに魅了されたものの一人であった。漱石の激賞によって文壇登場の布石ともなった初期の名作「鼻」なども、むしろ自らの強すぎる性欲(巨大な鼻は巨根の隠喩であろう)をもてあます男に対するユーモラスな観察とみなすべきである。このような解釈からすれば、「芋粥」にしてみたところで、女を飽きるほど食べてみたいと念じたが、現実に食ってしまう事で永遠に女の魅力を失ってしまった男の悲喜劇という風になってくる。芥川初期の諸作は自らの文学的教養に対する矜持と反自然主義的な作風で漱石の推輓にあずかろうという文壇的野心さえ伺えるようなものであるが、ここでは初期の作品の中から「好色」一つを取り上げて、さらなる考察に移してみようと思う。
「好色」の出典は「今昔物語」巻三十の「平定文仮-借本院侍従 語第一」であり、同様の素材を扱ったものとしては谷崎潤一郎の「少将滋幹の母」がある。作中冒頭において芥川は宇治拾遺や今昔、十訓抄などの出典からの引用を提示する事で本作に先行する物語の存在を読者に了解させ、その古典に対する距離を主知的な分析で現わそうという意図を隠さない。読者は初めから芥川の用意した「落ち」を期待して、謎解きにも似た欲求から最後まで一気に読了させられる訳だが、この方法に関しては志賀直哉の批判があり、それが晩年の芥川を多いに悩ませもするのだが、それは後で詳述するとして、まず我々はこの作品に芥川が用意したところの「落ち」から、彼のドン・ファン理解についての考察を進めねばなるまい。
芥川のドン・ファンは現実を容認しない理想主義者としてである。2人の登場人物の好色問答で「ドン・ファン」について語らせ、その本質に天才故の不幸という、今日的にはいささか凡庸な回答を用意するにとどまっている。平中(本作の主人公)が女という女に飽き、その理想追求の生活を止められないのは、人倫を絶した美人の姿が髣髴と浮かんでいるからだ。しかし末法の世の中にそんな美人のいる筈はないから、平中は不幸に終るより仕方ない、幸せになる為には凡庸が一番だよ・・・といった、無常観さえただよう仏教法話さながらの落ちで結びとなるのである。
「好色」のアウトラインをかいつまんで紹介するのが本稿の趣旨ではない。ここでいよいよ太宰治に御登場いただき、その第一創作集「晩年」所収の作品「ロマネスク」との比較において、太宰の内面に深く影を落とした芥川の影響を検証してみる事としよう。
「ロマネスク」はその内部に「仙術太郎」「喧嘩次郎兵衛」「嘘の三郎」という三つの枠物語が各々全く関与するところなく並列する小説なのであるが、最後の三番目の物語に他の物語の2人の主人公が混入して3人が我々は兄弟であるなどと宣言し同一化してしまう事で、それまでの3つの枠物語の独立性の均衡が破綻するところで全体が完結するという構成を持っている。その枠物語の一つ、「仙術太郎」が 芥川の「好色」のパロディといいたいほどの相似性に注意をはらうべきである。
まずはその主人公の容貌についての描写。「好色」では──、画姿として平中の簡単なスケッチから筆を起こし、下ぶくれの顔、男には珍しい餅肌、薄い唇の左右にある薄墨を刷いたような髭、という風にこれ以上ない美貌の殿堂と言わんばかりに肯定的に描写されるに引きかえ、「仙術太郎」では主人公鍬形太郎の仙術による変身後の姿として、──頬はしもぶくれでもち肌であった。眼はあくまで細く、口髭がたらりと生えていた。天平時代の仏像の顔であって、しかも股間の逸物まで古風にだらりとふやけていたのである。──と、平中にあっては肯定的に語られた画像が、残酷までの否定の対象に、あるいは笑いの対象にすりかえられているのである。この明らかに作者太宰その人を想像させる主人公は16歳にして恋に目覚め、津軽一番のよい男になりたいものじゃ、と「ドン・ファン」へと変身するのである。コミュニズムからの脱落、いわゆる「転向」が罪意識の根底にあると考える奥野健男などは、この作品に挫折、蹉跌の悲しみを読み解こうとするが、勿論そればかりではなく、──太郎は美男というものの不思議を考えた。むかしむかしのよい男がどうして今では間抜けているのだろう。そんな筈はないのじゃがのう。───この自問自答の中にこそ、太宰の反時代的な宣言、時代に対するアンチ・テーゼを読解するべきなのである。
太宰の自画像、ネガティブのドン・ファンは、敬愛する芥川の生活の欠如、そのドン・ファンたらんとした美的生活の構想を以って、自らの生活としようとした一種の襲名披露のようなものでこそあった。スタイルの決まった太宰は水を得た魚のように、まさしく「太宰」を演じ始める事になるのだが、そのナルシスティックな欲求が結果として生活と作品の相乗効果を産む、メディア・サイズの「身体」を持った作家の最初のモデルケースとなったのである。ただ、スタイル決定に伴って、太宰は全く異なる可能性をみすみす廃案にせざるを得なかった。文学では作家自らを神の位置に設定する事で、あらゆるキャラクター(被造物)を創造する事が可能だが、自らの存在を使ってキャラクターとなる時は、まさに一つの典型でしかあり得ないのである。廃案された真に恐るべき可能性については、太宰はその文学作品の中で予告篇さながらに登場させてもいる。あるいは太宰もその存在を予想しただろう未知なるキャラクター、その幻に現実に出会う事になるまではさすがに太宰といえども予期せぬところであった筈である。
東海道三島にその名も高き男、22歳の夏に喧嘩の上手になってやろうと決心する将来の火消し頭。説明するまでもなく、「ロマネスク」第二番目の枠物語「喧嘩次郎兵衛」はこのような男を主人公とする、ますらおぶりの物語である。

神話学という学問においては、神話を歴史とは断絶した伝統社会のプリミティブな非合理的なフィクションであるとみなす事なく、太古の出来事によって現在の世界を基礎づけ、現代人にとっても生きる上での規範や意味、人間性を保障する上での不可欠な根拠であり、無意識における真実である、と考えている。現代の代表的な神話研究の学術成果としては、ユングの深層心理学、レヴィーストロースの構造人類学、イェンゼンの民俗学、デュメジルの比較神話学がある。歴史と神話は対立概念ではなく、むしろ神話は歴史の基底にあって、価値体系化するための起源とみなすべきであろう。
鴎外の歴史小説に多大の影響を受けた芥川であったが、歴史が小説化される過程で鴎外の場合、フィクションが史実に優先される事はなかったのに対して、芥川は文献上未確認の事実でさえ駆使して、小説世界の構築に努めた。フィクションの創造主としての自己を知識人と規定し、「地獄変」や「戯作三昧」「舞踏会」などの諸作を通して、芸術至上主義を揺るぎないものとしている。大正期における芥川は谷崎潤一郎と並んで、芸術派、物語作家のチャンピオンでこそあったが、志賀直哉の批判を待つまでもなく、彼は自らの致命的欠陥に神経を病んでいた。
ほとんど既存の芸術作品(国文学者や歴史学者を「原典探し」に奔走させるほどの博識をもってなる)のアマルガム(合金)とも言うべき芥川には、オリジナルな思想の域にまで高まった生活がなかったのである。志賀直哉(自らは小説家的才能を持たなかった、職人肌の文章読本的な目利きとして)が同時代人にあれほど恐れられていた事の一つには、、骨董鑑定的な文章の目利きであり、単にリアリズムをして良しとするのでなく、真贋見極めるところの「本物」を識る見者とみなされていたからであった。つまり、美と倫理の相関関係の問題であり、作家的原風景に結びつかぬフィクションは紛い物であり、内面の真実がない作品はどれだけ精巧であっても他人の借り物に過ぎない、──それは作家には死刑宣告にも似た厳しいものである、──贋作者に倫理などない。
志賀の存在のために小説家足る事を断念し、文芸批評なる日本的思想の開祖となったのが、かの小林秀雄である。なるほど、芥川は芸術完成のために我が児をも犠牲にする絵師や、政治的行動を傍観して戯作創造の日常に至福を得るもの書きや、人生は一回性の美、花火の如きものであるべきだと作中人物に言わしめ、「奉教人の死」に至っては、ジャンヌ・ダルクのごとき男装の麗人に殉教の死を与えて、読者をも信仰の渦に巻きこもうとする。しかし、果たして、これらの美学は芥川の内面の真実足りえたのか?これらの代表作が真に芥川の作品となるためには、決定的に何かが欠落しているのではないか?
芥川の死が文壇を震撼させる事件であった事は、本稿で最初に触れた通りである。

「ピェエル・ロチの『江戸の舞踏会』は芥川龍之介の『舞踏会』の下敷きになった。芥川の『舞踏会』は、短編小説の傑作であり、芥川の長所ばかりの出たもので、私などは、後期の衰弱した作品より、よほど好きである。」

三島由紀夫「『鹿鳴館』について」より引用

後期の衰弱した作品に戦慄を覚えて、自らの文学的方向性を思い定めた太宰とは逆に、自らの内面の弱き感受性を克服して真のダンディズムを我がものにしようとした三島は、芥川、太宰らと同様に、その十代のころの作品を志賀直哉に批判されている。三島は学習院に籍を置きながら、白樺派には距離をとり、リルケやワイルド、谷崎、そしてラディゲの小説に親しんでいた。二十歳で夭折する事を前提に執筆された諸作は三島の文学的遺書であり、自らを小説家であるよりは詩人であると規定し、堀辰雄や立原道造ばりの完成度の高さは文学的友人達を圧倒し、「天才」の名を欲しいままにしていたのに、あの老大家には一蹴されてしまう。果たして三島は二十歳で死の恩寵に与る事はなかった。
結局、三島にしても芥川的命題は他人事ではなかったのである。「本物」の自分になるには、どうすればよいのか?三島は自らの内面に解剖学的分析のメスを入れ、自分を構成する様々な要素の原点に遡行する試みを作品化、文壇における位置を不動のものとした「仮面の告白」を公衆の面前に公開する。
この占領下の日本に突如として現れた怪物、男性ストリッパーは「自己」という特殊から入って、やがて「人間」という普遍まで、その存在論的根源まで可視的な作品として開陳する事となるのである。昭和28年、三島は新作歌舞伎の台本にまで進出し、芥川の「地獄変」を舞台化している。三島歌舞伎はその後も続々と創作され、昭和44年に滝沢馬琴原作の「椿説弓張月」を完成しているが、芥川が「戯作三昧」で主人公に選んでいるのが、馬琴である。芥川は馬琴の口を借りて、芸術観を吐露している訳だが、三島の場合、事もあろうに「弓張月」の主人公にして英雄、源為朝を作者自身の自画像にしているのである。作中人物が現実の存在となる事で、「作者」は消失している。人間が箱の中に消えたりするマジックがあるが、源為朝が突然、昭和元禄の東京に現れ、演技ではなく本当に切腹してしまうのだ。
歴史という人間の知的構造物は確固不動なる実体などではなく、流動的な不確定的な幻に過ぎないのではないか。やはり、三島は「鹿鳴館」の自作解題の中で次のように書いている。

「歴史の欠点は、起ったことは書いてあるが、起らなかったことは書いていないことである。そこにもろもろの小説家、劇作家、詩人など、インチキな手合いのつけ込むスキがあるのだ。」


そして、神話や伝説はある人々の中で歴史以上の強度を持って、内面の事実として、現代にあっても存在している。ある意味では、史実以上に明確な「形」として。
「椿説弓張月」は、英雄源為朝の死と復活の物語である。保元元年(1156)に皇位継承をめぐって、崇徳上皇、藤原頼長と後白河天皇、藤原忠道とが対立、両陣営は当時、権力とは程遠い武士を傭兵として召集した。鎮西八郎源為朝は父の為義と共に崇徳・頼長側につき、先に後白河・忠通側についていた兄の義朝と平清盛との連合軍に対して戦闘状態に入った。内乱は短時間のうちに終わり、敗北した上皇軍は次々に自首し、ついに崇徳上皇も投降し、讃岐に移された。長男源義朝は自首してきた父の為義を斬る。一人不明であった為朝もやがて逮捕され、京に連行された。斬首の刑にはならず、伊豆大島への遠島の刑に処せられた。ところが、伊豆大島でも大暴れし、朝廷から二十艘の軍船に乗った五百余名の為朝追討軍が送られたが、為朝は矢を放って船を沈没させてしまう。
その後、切腹して三十二歳の生涯を終えている。
史実としては、「保元物語」に多少の記述が見られるのみで、為朝に関する限り、歴史は欠点だらけである。それを補って余りある、為朝の英雄物語として創作されたのが、馬琴の「弓張月」という訳である。人々は英雄を忘れず、伝説はとどまるところを知らず、巨大化されていった。彼の事を忘れられないどころか、為朝は死なず、その「名前」は琉球にまで上陸している。現地にて妻帯し、その息子が琉球王国初代国王舜天王になったというエピソードは、義経=ジンギスカン伝説と比すべきものである。

フィクショナルな生活をそのまま史実に刻んだ三島は「本物」の自分を回復して、文壇はおろか、世界中を震撼させた。「小説の神様」と呼ばれた志賀直哉は、象徴的なことであるが、三島の死の翌年、即ち1971年にひっそりと長寿を終えている。


(続く)色男NO.1記