色男NO.1語録(2002・平成14年度)

●猛暑と文学的自意識 色男No.1 2002/08/03 02:52
こんばんは、みなさん、私が色男です。
新聞によると日本政府・日銀は二千円を除く3 種の紙幣を一新して2004 年度から新紙幣を発行すると発表しました。1984 年以来20 年ぶりの紙幣の刷新は偽造防止徹底と景気浮揚に目的があるという大変分かりやすいものです。この世に蔓延る偽札作りを一掃し本物の復活、失われた10 年あるいは平成不況からの脱出となんとなく80 年代リバイバル気分が、9 月ソロデビューのタッキー連続ドラマ「太陽の季節」まで心憎い演出が垣間見られます。表面の肖像として福沢諭吉は据え置き、ノーベル賞候補野口英世と髭なし夭折のっぺり顔の樋口一葉が初登場します。
(*^_^*)さんの脱文学宣言は私自身の若かりし頃の自意識まみれランボー気取りの文学から生活へという断筆宣言を思い出させてくれました。「地獄の季節」から原口統三「二十歳のエチュード」はたまたま三島19 歳の短篇「中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋」「盗賊」などを読んで、最後の言葉を書きつける事で自己言及の袋小路からの脱出などと青臭い観念に没頭した世間知らずの19 歳の私を思い出したのです。当時の私とありすさんではその経緯など、まるで異なるでしょうが、今の私は意味という病から完全に癒されてはいない呪縛の中で文学と生活の両極に引き裂かれた複眼的怪人物になってしまっています。(*^_^*)さん、新しい趣味を開眼した暁にはグルメの国、旅行の国、映画の国を是非とも宜しくお願いいますね(笑)。
( ^0_0^)さん、はじめまして。さっそくですがHP を拝見しました。アリス及びウェーベルンに対する愛が感じられて、その姿勢に共感を抱きました。この掲示板にも可愛い(^^♪さんがいらっしゃいますので、仲良く対話などしていただければとてもうれしく思います。
(^_-)-☆さん、富士五湖の避暑いいですね。本当に毎日暑くて体力も消耗し、夏ばて寸前食欲減退のこの頃、涼という文字を見るだけで飛びつきたいほどの衝動に駆られてしまいます。山中湖には三島文学館もありますから、時間に余裕があるのでしたら1 度足を運んでみられてはいかがでしょうか。 楽しい夏の思い出話を心待ちにしています。

●死者その物語の光輝を超克するために 色男No.1 2002/08/27 00:10
こんばんは、みなさん、私が色男です。
大江健三郎の万延元年のフットボールに見る兄弟対決はそのまま認識と行為の問題へとスライドし、 行為の表象たる鷹四は構造主義的反復の装置であり同時に中心を活性化する周縁であるという山口 昌男的70 年代的思想課題をもらさず描破してある点において、三島事件の預言的衝撃の物語であると考えられる。
ダースベイダーは中上健次的父を投影された存在であり、解放されようとする息子から目的を剥奪するように自殺してしまう。
禁断の恋がフォースの暗黒面への引きがねとなっているというエピソード2 は、ルーカスの「春の雪」解釈である。
清顕の悲恋がなければ、勲の自刃はなかった。
非文学的領域への侵犯。島田雅彦も三島をサブカルチャーの帝王と呼んではばからないように、私も三島問題は多ジャンルに越境し、それはほとんど日本と現代についての問題それ自体へと拡散し、文学なる制度の外部へとはみ出して行く現象そのものを、あのような表記で描出せんとしたまでの事だったのです。
首相待望論も高まる注目の人、石原慎太郎との比較から三島を論じる新刊「三島由紀夫の沈黙─その死と江藤淳.石原慎太郎」(伊藤勝彦著 東信社刊)が先月の1日に出ました。以下、その内容文を紹介しておきます。「三島と15 年の交友関係をもった著者が、言説を超え果敢な行為者としての死を願った三島の内面世界を見据え、江藤・石原らの三島理解を批判しつつ展開する、その哲学的死の謎への渾身の挑戦。」
(*^_^*)さん、「太陽の季節」の原作は言うまでもなく昭和戦後復興期の時代設定になっていますが、ドラマでは平成の現代、人物の相関関係もかなり違うようです。階級闘争のような話でもないし、私小説でもない、モデルは慎太郎の弟で後の映画スターのあの人ですが、欲望の全的肯定というか思想に対置する肉体とヒロインの死による敗北感といったところが原作の方なんですが、ドラマではどうも違っているようです。虚構の世界から現実の世界へというと例の寺山修司のキャッチコピーみたいですが、人生には意味などなくフィクションの中にだけ意味は危険な輝きを放ちつつも存在しています。人生と物語を一致させる事のできる人は幸せです。書かれる人と書く人と果たしてどちらが真に幸福か?凡夫はただ生きることで、それを知り得る事でしょう。
(^_-)-☆さん、私も日本人俳優による(市川染五郎と奥菜恵)シェークスピア劇をひとつだけ見た事があります。ハムレットです。なかなかよかったですよ。慎太郎の「老いてこそ人生」は売れてるみたいですね。慎太郎が三島について語る時屈折しているものがあって、感情的になっているようでもあり、計算しているようでもあり、とにかく同じ肉体論を三島没後繰り返し語っています。彼は自らの人生に意味を見出すべく、三島という昭和の巨大なフィクションを相対化しようと果敢に首相の
椅子へと戦いを続行しているようにも思えます。

●谷崎旧居休館の記事 色男No.1 2002/09/05 01:18
みなさん、こんばんは、私が色男です。
晩は悲しむべきお知らせがあるのですが、新聞によると谷崎潤一郎サイバーミュージアムでも紹介している、谷崎ゆかりの富田砕花旧居が芦屋市の財政難のために休館する事になったようです。明治時代の築で関東大震災を機に谷崎は松子夫人とともに1934年からの2年間をここで過ごしました。谷崎の後に転居してきた詩人の砕花が死去すると、芦屋市は1987 に買い取って無料で週2回一般公開してきました。この財政難は1995年の阪神大震災がそもそものきっかけで、復興事業の支出などが財政を圧迫し、年間約120 万円の維持費のかかる同旧居にもその余波が及んだと言う事で す。

●雑感いろいろ 色男No.1 2002/09/17 01:01
みなさん、こんばんは、私が色男です。
憂国の国内上映会は鈴木邦男氏がロフトプラス1 でやったそうです。
三島を理解し得るのは男色家だけという見解はある種の三島密教論ですね。私はそれを大乗化しようと目論んでいます。だからサブカルとの相関関係に言及して余念がない訳ですね。
三島と川端、あるいは太宰、慎太郎は同性愛的関係にある、精神的にはそういい得るかもしれません。
美輪明宏が恋人の赤木圭一郎(日活スター)が死んで、落胆しているのを慰めたのが三島。 肉体関係があれば長続きするでしょうか?お互いは対談で営業的関係として利用しあっていると談笑している。美輪は今も三島を利用している。
殉教者は潜在的マゾというのは通俗的精神分析の解釈。全てのA 型が几帳面でないように、全ての神風特攻はマゾでない。
三島は安部公房との対談で俺は全部自意識だ、無意識はない、と語り、人工的自己演出で素人分析家を迷宮に誘う。
ゴルゴ13 の拷問シーンはSM 的快楽にふけっているようにも見えなくはない。
三島はボクシングで手加減するなと激怒したが、安部譲二がボクシングをやると能圧が上がり知性に損傷を与えては大変だと他への転向を促す。
三島の首から下の人工的肉体建築と書斎だけを例外としたコロニアル様式の邸宅は相似形。首と書斎は徹底的な機能性と合理性の集積で、肉体と家は薔薇と同様の宇宙的虚妄と粉飾。
(お詫び)
先週半ばより、コンテンツが見えないという不具合が生じ、皆様にはご迷惑をお掛けしました事をお詫び致します。_(._.)_というパーシーの書き込みにもあるように、しばらくパラダイスはトップの海の画像しか写らないようになってしまって、パソコン音痴の私はただ愚かしくもオロオロするばかりでした。とにかく、また元通りになってよかったです。
(^_-)-☆さん、先日大阪ミナミでは大火災により、中座近くの法善寺横丁は織田作之助ゆかりの老舗かっぽう料理屋も全焼してしまいました。日本は欧米に比べて、もともと文化財保存という観念があまりないようなんですが、失われてしまったものは2 度と帰りません。谷崎旧居が今後どのような運命をたどる事になるのか、とにかく残す方向で検討してほしいものです。学歴なるもの万人向きの話題でない、というのは本当にその通りで、気にする人は生涯にわたって捕われ続けるようです。身体的特徴や出自、宗教など、デリケートな問題に満ち満ちているのが人の世の世知辛さというものなんでしょうか。
(*^_^*)さん、教育実習楽しそうでなによりです。高校生に手を出してはいけない理由が分かったという謎のような言葉が気になったので、もし、よろしければ、詳しく教えて下さい。

●表現の自由とプライバシー裁判 色男No.1 2002/10/04 00:42
こんばんは、みなさん、私が色男です。
かねてより文壇の事件として注目を集めていた柳美里の処女小説プライバシー裁判に敗訴の判決が下りました。しかも今回は最高裁が小説の出版差し止めを初めて認めた事で、憲法に定められた表現の自由、検閲の禁止という条項に抵触し、さらには私小説や評伝などのジャンルに制限が加えられると言う前例を作ったとして、文壇や出版界に波紋を投げかけているようです。94 年当時の「新潮」編集長は、モデル側が不快感を持つだけで、その描写を禁じる判決であり、大変残念、とコメントしていますが、作家の中にも大江健三郎のように原告側の弁護をする人や、伝統的形式である私小説に現代性はなく作家の表現全般を縛るものではあり得ない、という冷静な見解も少なくないという事です。車谷長吉が直木賞になる今日、近代文学の常識はもはや失効していると見てもいいのかもしれませんね。
(^_-)-☆さん、秋の読書のお勧めは?との事ですが、「老いてこそ人生」の関連本として同じ慎太郎の「わが人生の時の人々」なんかどうでしょうか。慎太郎と各界著名人との交流回顧録のような本ですが、実に日本の戦後史の一端を垣間見るような豪華絢爛なビッグネームが続々登場します。大江は「憂い顔の童子」、村上春樹は「海辺のカフカ」という長編をそれぞれ出版して、それなりに話題になっているようです。
(^^♪さん、はじめまして。率直なご感想をお聞かせして頂きまして、有り難うございます。私の書き込みの内容やそのスタイルは万人受けするものではないようで、突然、見ず知らずの方から、お前の書き込みは嫌いだ!と宣言される事もこれまで1、2 度ではありませんでした。ご意見はご意見として謹んで参考にさせていただくつもりですが、私は匿名による誹謗中傷の書き逃げなど最も恥ずべきものと考えておりますし、また人並みに自尊心もあり特定掲示板を荒らしによって停滞させようなどという暇な時間は全く持ち合わせておりません。客観的に私の支持者と批判者のどちらがより多数を占めるか私には皆目見当がつきませんが、最終的に私を批判する人がいるのは仕方のない事ですし、かといって私の書き込みが明かに誰かの不利益をもたらすものでない以上、書き込み、あるいは表現に制限をかけられる事もないだろう、と考えています。

●ドン、キホーテは畳の上で死なない 色男No.1 2002/10/25 00:53
みなさん、こんばんは、私が色男です。
大江の書き下ろし新刊「憂い顔の童子」は一種のドン、キホーテ物語であるようですが、三島作品については佐伯彰一が「評伝三島由紀夫」(中公文庫)の中で、「わが駒沢善次郎は、純日本型のドン、キホーテではあるまいか。ドン、キホーテが、今はロマンスの中にしか存在しなくなった騎士道的理想にとりつかれていたように、途方もなく現代離れのした家父長的倫理を遮二無二実行してのける。
彼は当然、終始場違いな愚行を演じつづけるのだが、人々から怪訝がられ、笑われるうちに、彼は、次第に手ごたえのある実在性を帯びてくる。」というように「絹と明察」についてもドン、キホーテとの類縁関係を指摘しています。この作品は三島がノーベル賞を目指す上で信頼した翻訳家ジョン、ネイサンから拒絶され、しかもこれからは作家ではなく作品本位で仕事を選びたいとまで言われ、大江の「個人的な体験」に逃げられてしまったという経緯があります。三島は「個人的な体験」について、そのハッピーエンドのしめくくり方を批判し、ネイサンは三島没後、最近になるまで三島家によって発行が見合わされていた、いわくつきの三島評伝を書いています。
(^_-)-☆さん、ノーベル賞の自然科学関係はまだいくらかもらえそうな人がいるようです。ただ深刻な理科離れが最近の若年層の間には起こっていて、20年後が心配だという事です。文学賞はある意味平和賞と並んで政治的色合いが濃厚な賞ですから、受賞は業績以上に運による、という感じみたいです。一番文学賞に近い日本人作家といえばマスコミでは村上春樹の名前が挙がる事が多いそうです。あいかわらず不況は改善されませんね。下手をすれば1世紀は停滞しそうな慢性的不況のような印象があります。高校生の心中というのは可能性からすると、もっと多くても不思議はないんです、ワイルドも真剣な恋は暇人の特権だと言っているくらいで、現代の自殺は不況を反映してロマンチックラブイデオロギーの要素は皆目見当たりませんね。
(*^_^*)さん、外人とダンディマニアから純粋な若者志向への転向を自らの老化を理由するなんて、少し驚きました。22歳で若さへの憧れが生じるほどに、ありすさんは老成しているんですね。私が本当に色男なのか?というご質問がありましたが、一応そういう事にしておいて下さい。豪傑によると私はエロティックな存在で、見つめられるだけで妊娠しそうになると言った女もいたようですが、エロス的人間として生涯現役というのは、さぞかし孤独でくたびれる事だと思います。どうやら家庭の中にはエロスはあってはいけないみたいなので、幸せになるには奥さん以外の女性には愛されないように、静かな生活を送るのが一番いいということですね。

●慎太郎は無意識に美が宿ると語りき 色男No.1 2002/11/16 04:03
こんばんは、みなさん、私が色男です。
三島は作家としてロマン主義者であり、エロティシズムの問題から天皇あるいは絶対者が必要になる、としていますね。駒沢善次郎は天皇なんだよ、と三島が村松剛に語っているように日本的父性の問題を扱っているとも言えますね。慎太郎の三島理解は彼独自のかなりユニークなもので、ボディービルの筋肉は偽者の筋肉であり、自意識過剰の三島がその市ヶ谷の最後の時に、絶対的に美しい無意識の写真を残したが皮肉な事に三島はその写真を見る事もなく、死んでしまったといろんな著作の中で繰り返し語っています。
(^_^)さん、仕事として考えた場合は児童文学の研究者よりも翻訳家のほうが求人(?)が多いでしょうね。谷崎は「文章読本」の中で実用向きの文章と文学的文章というものの違いはないと書いていますが、吉行淳之介がその文庫の解説でそんな事はないだろうというふうに、あっさり否定的に書いていたはずでそのへんが面白いと思いました。学校の先生としてはいやになるほど就職浪人を見ていて、社会人になる上での進路指導というのを心がけているんでしょうか。大学院で進学しても、その先研究者の定員は椅子取りゲーム状態で、なかなか引く手あまたという訳にはいかないようですしね。
(*^_^*)さん、私が既婚者であるか独身者であるかは謎のベールにつつまれています。ブルジョアだと誤解されたり、人と深い関係を結ぶのが苦手という事ですが、本当に腹を割ってつきあえる友人なんて、そうざらにあらわれるものでもないと思います。社会からして、だいたい社交辞令でなりたっているようなものですし、表面上それらしくふるまえばなんとかなるものですよ。B 型いて座人間がマイペースだというのは知りませんでした。というよりも私は血液型性格判断自体懐疑的なんですが、あれは戦前の日本の軍隊が組織作りのために考案したものなんだそうで官僚的な人間管理のためのノウハウなんだそうです。ゴルゴ13 でおなじみのさいとうたかを氏はこの血液型性格判断の信奉者で、A 型の人間を至上の存在と認識して、それ以外をあまり信用していないようです。他者の内面に拘泥しない徹底的に非人間的なキャラクター創造の背景には、なにか人間不信のような冷たい理性があるような気がします。

●残酷さの中に立ち現われる神聖 色男No.1 2002/12/06 01:37
こんばんは、みなさん、私が色男です。
三島を昭和の谷崎と呼んだ人に、北原武夫がいます。昭和35年、「宴のあと」が出版された頃の三島のイメージを伝えるものとして今日的には面白いかもしれません。
「両者とも、日本には珍しい耽美主義的作家だという点で、先ず資質的によく似ているが、単にそれだけではない。作家としての生活態度、才能の広さ、作家的自信の強さ、世上に持っている愛読者層の揺るぎなさ、等々の点でも、三十数年の年齢を隔てたこの両作家は、実によく似ている。」北原は二人は日本のちまちまとした私小説作家とは異なり、美的生活への配慮と合理精神に共通点があるとしています。三島自身も後年、作家のタイプを谷崎型と荷風型に分類し、自らを生活態度は谷崎型、精神は荷風型となるだろうと語っています。
谷崎と川端の相違点については、竹西寛子の整理が分かりやすいので紹介しておくと、谷崎はダイアローグによってドラマを進展させたり飛躍させる日本文学の物語の直系で王朝と江戸と西欧の混交という形であるのに対して、川端はドラマの欠如あるいは本質的にモノローグによる和歌(日記随筆の系譜には与しない)に連なり小説の約束事は無視され王朝と中世と西欧の混交という形である、
としています。このように整理すると三島が王朝物語の系譜に繋がる、その構造美から谷崎との共通項が見出されますが、中世への親近性という点について三島と川端は共通の傾向をもっているように思われます。三島が「みずうみ」を批判したのも、上述の文学観から来ているもので、三島は告白する場合、小説よりも戯曲がふさわしいと語っているように、極めて方法論的な小説家であったのです。
三島は「太陽と鉄」において、文武両道という彼独特の二元論哲学を開陳していますが、文学としてはロマン主義であり、思想行動においてエロティシズムを具現する媒介として肉体が浮上して言葉に拮抗します。古林尚との最後の対談でも、戦後、ロマン主義を憎悪してむりやりに自分を新古典派のように規定して「潮騒」なんか書いたが、全てを理性で統御できる日本にまだない古典主義を実現できると思ったのは間違いで、年とともに十代で受けた感情教育が芽をふいて自分がロマン主義者である事を認めない訳にはいかなくなった、と語っています。
文学は相対的なもので最終的に責任という観念はなく、とにかく生きて完成を目指して洗練されるべきものだとして、作家として自殺する事を否定した三島には、文学とは異なる第二言語としての肉体によって、道徳的な自殺という事を考えたようです。エロティシズムは超絶的なもの(三島はそれを天皇と呼んだ)に触れる事で真価を発揮し、この世の最も残酷なものの極地の向こう側にその真骨頂がある、としていますが、人は直ちにバタイユなどの神学的論考を経由して、血の海に浮かぶ聖痕(スティグマ)のような観念に到達する事でしょう。本物の血を流せるのは文学ではなく、肉体に他なりませんからね。

●三島由紀夫の独裁 色男No.1 2002/12/25 01:18
こんばんは、私が色男です。
三島にとって天皇はロイヤリティの対象であり、それが別に殿様であってもかまわないという意味の発言があります。それに比してレームにとってのヒトラーは、あくまで「わが友」であり、無垢の信頼心が裏切られる物語でもあります。結局ヒトラーは一人の友達も持たない非人間性によって独裁を達成する訳ですが、認識者としての三島の内面にはむしろ、この独裁者に近いものがあったと思われます。ボードレールのいわゆる死刑囚にして死刑執行人を自負する三島は、自らの肉体をしてレームと突撃隊を作り、それを粛清する事でイデオロギーの終焉を自作自演してみせた節があります。三島以後、日本では現代のファシズムともいうべき高度大衆消費社会が爛熟し、主体性論は地に落ち、プレモダンの再来のようなポストモダンが全て文化現象を様式なる同一性の円環に回収するような自体が起こります。
価値相対主義と不即不離のサブカルチャーこそが、三島の存在を忘却する事で成立し得る流行=風俗思想である、と言った批評家もいましたし、浅田彰などもかつて島田雅彦との対談で、「そういう豊かな情報の束としての三島を「善用」するというか、世界中の小説や劇や映画の中に三島的なものが現われ、三島が至るところで偽の物語として反復されるという状況があるわけれども、それをそのまま肯定すべきこととは到底思えないんですよ。」というように理解していました。つまり三島を傍らに置くことで、そのパロディに見えてしまうような流行現象があふれているという認識があって、三島という記号が戦後体制の全否定であり戦後再軍備徴兵制のシンボルとみなすような進歩的文化人の間でも、三島の名前をやたらと語らず、というような態度がある程度の勢力に幅広く浸透していたようです。
話を「わが友ヒットラー」にもどしますと、三島は自作解題の中で「私が書きたかったのは、一九三四年のレーム事件であって、ヒットラーへの興味というよりも、レーム事件への興味となっている。
政治的法則として、全体主義体制確立のためには、ある時点で、国民の目をいったん「中道政治」の幻で瞞着せねばならない。それがヒットラーにとっての一九三四年夏だったのであるが、このためには、極右と極左を強引に切り捨てなければならない。(略)レーム大尉は、歴史上の彼自身よりも、さらに愚直、さらに純粋な、永久革命論者に仕立ててある。この悲劇に、西郷隆盛と大久保利通の関係を類推して読んでもらってもよい。」大久保は西郷を切って捨てた後、その心酔者に暗殺され、ヒトラーもレームの後を追うように首相官邸で自殺していますが、昭和天皇は戦後も人間天皇宣言のよって延命したのは周知の事実ですが、三島は今日では戦後最大の昭和天皇批判の作品「英霊の声」の作者として知られるところです。

●(^^♪さんとA 型女性 色男No.1 2002/12/25 01:38
(^^♪さん、名無しの書きこみは内容から(^^♪さんだとすぐに分かりましたよ。なにしろ、長いお付き合いですからね。
私も先日ハリーポッターと秘密の部屋を見ました。ギャング、オブ、ニューヨークとどちらを見ようか迷ったのですが、ギャングの方は公開間もなく長蛇の列で、なんとなく遠慮してしまいました。
血液型自体は明治33 年にドイツで発見され、欧米人にA 型が多く、動物やアジア、アフリカ人にB型が多い事から、白人優位説を立証するのに利用された経緯があるようです。KKK とかも今もって利用しているのかもしれませんね。それを性格学にしたのが日本軍で、満州事変に際してはO 型中心の部隊が結成されたといいます。ちなみに三島はA 型で太宰はAB 型です。
A 型女性に嫉妬され絶交した経験から固定観念が育まれ、A 型信奉者のゴルゴ13 と対峙しようというのは、なんだか劇画チックで面白いですね。

●みなさん、どうぞよいお年を 色男No.1 2002/12/31 01:18
みなさん、こんばんは、私が色男です。 今年も残すところ、あと1 日となってしまいました。今年はみなさんにとってどんな一年でしたか?来年も何卒宜しくお願いします。
(^_-)-☆さん、いろいろな楽しい話題をありがとうございました。来年も変わらない健筆で、この掲示板に来てくださるみなさんを楽しませてくださいね。
(*^_^*)さんは、来年が飛躍の一年となるように、私もお祈りしています。

●小笠原からお帰りなさい 色男No.1 2003/01/19 15:45
こんにちは、みなさん、私が色男です。
(^_-)-☆さんの小笠原紀行、面白く拝読させていただきました。船旅は現代のドライ感覚なタイムイズマネーの常識を逸脱して、時間がさながら浦島太郎の竜宮城みたく緩慢になりますから、得がたい体験が出来て、いいですね。私も随分昔の学生の頃、フェリーの2等客室で片道2泊の船旅で沖縄本島から程近くの与論島へ行った事があります。「潮騒」の神島のように、文明から隔絶された自然の宝庫のような島は日本列島の周辺には数多く点在するものと思われますが、海のこの世ならぬ美しさは改めて感銘を受ける事間違いないでしょう。屋久島の縄文杉など、何世代にも及ぶ生命の連鎖をずっと見つめて来たのだと思えば、人間存在なぞ蜃気楼みたいにはかなく消滅してしまいそうです。
小笠原諸島は川端がノーベル賞を受けた昭和43年に返還されましたが、ここは東京とはいっても交通の便などの諸事情から物価が都会並に高く、新聞や雑誌等の情報にも遅れがあると聞いた事があるのですが、どうなのでしょうね。

●太陽と影武者、ジャングルにストイックな乙女の午後 色男No.1 2003/02/17 00:41
こんばんは、みなさん、私が色男です。
三島は肉体的存在として石原兄弟を嫉妬していたという気がします。太陽族の二人は三島に太陽を盗まれて、一人は連続する殉職刑事を観察して太陽にほえろ!!と叫び、一人は三島の不在が日本に退屈をもたらしたと三島由紀夫の日蝕で語っています。
そしてこの長期におよぶ三島の大空位時代を埋め合わせている複数の影武者というものがある訳です。
換言すれば、三島をご本尊とするダミーが乱立している状況をポストモダンと理解して下さい。 ご本尊の隠蔽によって商品価値が保証されているのがダミーであるとも考えられます。
年譜を紐解くと三島は昭和26年の暮れから翌年の5月にかけて最初の世界一週旅行に出かけているんですが、そのクライマックス、太陽と握手したとも後に語って、「禁色」「潮騒」等の作品をもたらしたギリシャ体験というものがあります。この旅行については「アポロの杯」に詳しく、いわゆる太宰嫌いの理由としても興味深い一節がありますので、以下の引用を参考までにお読み下さい。
「ボオドレエルは不感不動を以ってダンディーの定義をした。感じやすさ、感じすぎること、これはすべてダンディーの反対である。私は久しく自分の内部の感受性に悩んでいた。私は何度かこの感受性という病気を治そうと試みた。(略)感じやすさというものには、或る卑しさがある。(略)私はまず自分の文体から感じやすい部分を駆逐しようと試みた。感受性に腐食された部分を剪除した。(略)
私の理想とした徳は剛毅であった。それ以外の徳は私には価値のないものに思われた。」
古林尚との対談(昭和45年、最後の言葉)で、晩年の三島が10代の思想に回帰した、自分がロマンティケルであると認めざるを得ないと語り、また、村松剛には「僕は太宰治と同じなんだよ。」と語ったと言います。浪漫派である事と、作品の形式的不備は一つの問題の両面であるようです。
「鏡子の家」は昭和34年の二部構成の長編で、それまで天才鬼才と騒がれた三島が初めて失敗作の刻印を押され文壇的にも葬られた作品でした。当時の主だった批評家が、この作品を批判していて、それ故に評価した奥野健男、江藤淳の少数意見が興味深いものであったりします。
日では猪瀬直樹が、日本の伝統が経済というブルドーザーで突き崩されて失われてゆく予感を先取りした傑作だったという解釈をしています。佐伯彰一は当時、登場人物4人は全て三島の分身で、それが全て破滅する、分身同士の間では何の接触も起こらず、三島の分身が一人ずつ破滅する姿を描写しただけで、これでは小説としての厚みが出ない、と評したのですが、今では悪い事をした、なぜ全ての分身が破滅しなければならなかったのかと、作者と一緒に一人ぐらい生き残る方法を考えてあげるべきだったと語っています。
奥野は「鏡子の家」を「仮面の告白」以来の傑作と当時から評価していて、奥野が好きな太宰の「ロマネスク」がやはり3人の人物が接触せずに小説としての発展がなかったこと、「ダス、ゲマイネ」やその焼き直しのような「斜陽」が、太宰の分身が数人登場して、そして破滅する作品だったことを思い出すと、批評家の好みも反映して、三島の中の「太宰」的要素が三島美学信者によって批判されたのではないか、という側面も見えてくると思われます。
ちなみに江藤淳は「鏡子の家」に風俗小説としての要素を見出しています。
(^^♪さん、小笠原は東洋のガラパゴスと呼ばれ,ジャングルまであるんですね。それに比べて東京はいかにも人工的で自然も土着的な地霊もないように一般的に誤解されているようですが、その地層の記憶を遡れば魔界ともいうべき呪術的空間を掘り起こす事ができる、という事をパーシーもお付き合い頂いている沿線評論家の三善里紗子氏の新刊「東京魔界案内」に語られています。都会の夜にもう一つの「自然」が隠されているのですね。
(^_-)-☆さん、お久しぶりです。卒業にむけて、かなりお忙しそうですが、お元気そうでなによりです。KKK はコナン,ドイルの短篇集にも出てきますし、今もって活動中です。読みはクークラックスクランで正解です。ラブストーリーは愛とは決して後悔しないこと、なんて言って1970年の劇場公開でヒットしました。法学部生は経済原論、刑法、簿記、金融機関,日本法史、工業経営から鱒の養殖の取材、トヨタとフォードの相違点のレポートなど、随分多岐にわたって勉強するのですね。
それだけ努力すれば卒業後の解放感はさぞかし格別のものとなるでしょうし、社会に出ればイケメンとも遊び放題です。ストイックな時間をこころゆくまで堪能してくださいね。

●奥野,猪瀬の「仮面の告白」理解 色男No.1 2003/03/13 00:45
ここで整理しておきますと、奥野、猪瀬両氏は三島が太宰を仮想的として「仮面の告白」を執筆したという認識を共通項とするものの、その性的倒錯を真実の告白とする奥野説を採用すれば、それを書く内的必然性を認める事になりマーケティングリサーチ説は説得力を欠く事になりますが、猪瀬説を採用すれば同性愛そのものが営業戦略である事から村松剛の同性愛仮面説を擁護する可能性を開き、晩年における一連の政治行動についても森田必勝との心中説などが説得力を欠く事となってきます。そして、もう一つ、「仮面の告白」成立の背景において、太宰の存在が全く関与しない村松の園子モデルとの失恋説があります。現実の三島は自身の逡巡から園子を失う事になるのですが、主人公に同性愛の仮面をつける事で二人の立場を逆転させ、主人公が同性愛であるために彼女をふったのだ、という事にしたかったというものです。猪瀬によると、当時の三島は鎌倉文庫の編集者に「彼女の事
を書かないでいたら、生きてはいられなかったと思います。」と手紙に書いているようです。
奥野、猪瀬の三島理解は「金閣寺」において対立する事となるのですが、面白い事に「鏡子の家」を評価する少数意見を二人で支えると言う事になるのです。二人にはそれぞれ、戦後派文学批判と日本の官僚制批判という問題が背景にあって、そこから三島という記号が再構成され、一つのシンボルとして結実しているのでしょう。
三島は「仮面の告白」によって、そのフィクショナルな生涯の起点とした、というのは松本健一の「三島由紀夫亡命伝説」に見られる解釈でありますが、この作品が「人間失格」を意識して創作されたとする批評家に奥野健男と猪瀬直樹がいます。奥野は太宰の全作品が滅んでも「人間失格」は永遠に読まれるだろうとし、文壇はおろか社会から抹殺される事も厭わない真実の告白、書いてしまった以上もう生きてはいられないような魂のバイブルとして、この作品を絶賛して止まない訳ですが、三島が「人間失格」を読んで同類相憐れむとも言うべき共感を得て、「仮面の告白」創作の動機としたのではないかという仮説のもとに、「三島由紀夫伝説」の論理を展開しています。いわば奥野の脱文学的な内的必然性の書物と言えるでしょう。ですから、命と引き換えに初めて書けるような「仮面の告白」を書いてしまった三島がいかに生きたかという関心が、この作家との18年間に及ぶ交流を支えた、と回顧しているんですね。
奥野は三島が太宰の文学的問題を継承しているという認識から、戦後派とは対立的立場にある作家と位置付けています。「仮面の告白」以前の三島は異端的なマイナー,ポエットであり、もし大蔵省での官僚生活を持たずに学生からそのまま有名作家になっていたら、堀辰雄の亜流ハイカラ抒情作家で終っていただろう、近代官僚制=日常性の中で自分が普通ではない怪物であるという違和感を抱いて、「仮面の告白」を書く決意を固めたからこそ大蔵省を辞めるに至ったのだ、まさにその時にライバルともいうべき太宰の自殺と「人間失格」を知って、嫉妬し、それを超える事を目標とした、というように、そこまで奥野の筆は滑りに滑って、ほとんど断定的に仮説を伝説として語りつづけています。
このように理科系人間の信仰告白というのは、どこかチャーミングなものがあります。
一方で、三島の自殺によって文学の終焉を実感、作家志望を断念した猪瀬直樹は「仮面の告白」をマーケティングリサーチによる成功例として、彼独特の文学論を展開しています。太宰の命と引き換えにベストセラーとなった「人間失格」が懺悔録であった事から、自分にもまた懺悔に値する内面的問題があるはずだと三島は倒錯的性愛の世界を捏造した、と言う事が、三島の独身時代の異性遍歴(?)や同性愛文献の研究、某心理学者を訪問しての自己分析,等の経緯を取材して、自らの仮説にリアリティを与えようとノンフィクション的手法を駆使して、追及しています。また終戦後の焼け跡では進駐軍の解放ムードから性的通俗本が氾濫していたという時代背景もあって、私小説を逆手に取った性的倒錯者のスキャンダラスな手記と言う事であれば、ベストセラー間違いなし、と三島は睨んだというものです。
(^^♪さん、随分久しぶりの書きこみになってしまいました。先月の末頃より、私のパソコンが、とてもネットできるような状態でない蝸牛のような速度になって、どうしたものか考えあぐねていたところ、パソコン情報に明るい私の友人たちよりの福音がありました。デフラグとスキャンディスクを3〜4 日に渡って繰り返したところ、見事に蘇りを果たしたのです。小笠原35周年もあり、テレビ開局50年、007 シリーズスタート20年と様々な記念があるようです。
(^_-)-☆さん、引越しするとネット環境が失われるのですか?田舎でもかっこよく車を乗りこなし、周囲にいる人全てを脇役に買えてしまうようなファッションに身を包んで、こちらの掲示板に入国していただけるとうれしいです。イケメンで少し貧しいというのが、太陽がいっぱいの時代からセクシーな男の類型だったりします。そういう男をペットみたいに助手席に乗せて、颯爽と車を走らせる(^_-)-☆さんを是非見てみたいものです。

●スタッフAまたは色男NO.121) 題名:ご挨拶とお礼まで
はい、みなさん、当コーナー掲示板開始以来、なかなかの盛況ぶりのようで、私こと色男NO.1がスタッフ一同に成り代わりまして、誠に厚く御礼申し上げる次第であります。「ザ・ラスト・パラダイス」と致しましては、当コーナーすなわち文学の国は教育の国に続いての2番目の誕生ということになりまして、記紀神話になぞらえますならば、国生み神話は最初の淡路島(オノコロ島)の次なる大八島という具合かしらんと思われますが、おそらく、後々になりますと、「ザ・ラスト・パラダイス」天地創造の神、救い主=最終教祖がその御姿をお見せになると予想されますので、まずは乞うご期待というところであります。
さて、それではさっそくでありますが、皆様に今月のお勧めの本とまいりましょう。 この3月にはいってから、一般書店店頭に並んでいるテリー伊藤氏の「君は長嶋茂雄と死ねるか」(主婦の友社、定価:本体1300円)という本なんですが、入国者の皆さんの中には大のプロ野球ファン、特に巨人ファンの方は多勢いらっしゃることと思いますが、なかなかどうして、この本、文学とプロ野球の相関関係を巧みに暗示させてありまして、大いに参考になる一冊なのです。 大相撲がさしずめ古典なら、正岡子規に始まる「野球」は近代文学というところでしょう。高橋源一郎氏の三島賞受賞作に「優雅で感傷的な日本野球」がありますし、東大総長蓮實重彦氏は知る人ぞ知る野球評論家でもあるのですよ。阪神タイガース野村監督はなんだか怪しいぞと思っていたら、やっぱり太宰の「富嶽百景」を読んで、あの有名なひまわりと月見草の物語(!)を案出されたようなのです。
今回は皆さん、是非とも太宰の「花吹雪」(「津軽通信」新潮文庫に収録)と併せてテリー氏の著作を御読みください。長嶋茂雄は生きた宮本武蔵である、なんてきっと吉川英治先生もビックリなさいますぞ。文学は文学のみにあらず、あらゆる現象、すべて文学的に考察すべし、これが今月の訓示であります。
あぁ、ありがたや、ありがたや。
追記:他の国々も続々と誕生していきますので、楽しみにしていてくださいね。
投稿日 : 99年3月22日(月)15時03分