色男NO.1語録(2000・平成12年度)

●色男NO.1(175) 題名:女性ヴォーカルはナルシストのエネルギー源
 皆さん、こんにちは、私が色男NO.1です。
 §^。^§さん、(^。^)さん初めまして。
 §^。^§さんのユーミン、みゆきのコンサートレポートはとても面白かったです。二人のキャラクターが手に取るように、 よく分かりました。それから、たかじん一筋という事ですが、たかじんの「東京」は私のカラオケレパートリーの一曲です。
 (^。^)さんのカラオケネタで思ったのですが、私が好んで聴くのは、女性ヴォーカリストのものであり、男性ヴォーカ リストの最新ヒットはなかなか頭の中に定着しなくて、カラオケで再生不能といった感じになるんですね。私は自分が男性ですから、女性ヴォ ーカリストが歌う、曲中の理想の男性像に自己同一化したいナルシスティクな願望で、ついつい巻き込まれて聴きいってしまうのですね。
 みゆきは屈折した冷めた恋愛至上主義、ユーミンは情熱的、肯定的に男性像の物語を構築している点に共感をおぼえます。 ナルシストというのは、他者の絶賛の中に自己の存在意識を確認するものですから、、ユーミンの曲は、本当に良いと思ってしまうのですね。
投稿日 : 2000年4月9日(日)16時38分

●色男NO.1(132) 題名:これが私の考えるヒント
 皆さんこんにちは、私が色男NO.1です。
 私は昨年のちょうど今頃、テリー伊藤氏の「君は長嶋茂雄氏と死ねるか!」や三善里沙子氏の「中央線の呪い」を推薦図 書として紹介したのですが、およそ一ヶ年を経て状況に変化が生じてきている事に、皆さんもお気づきかと思われます。情報を更新すべく、今 ここに紹介するのが、四方田犬彦氏の「日本映画史100年」(集英社新書)と三善里沙子氏の「中央線なヒト」(ブロンズ新社)です。プロ野球 もTV放送を通じて「劇空間」と自称するように大相撲と同様、日本という物語を共同体的に制度化するための芸能として機能している関係上、 純粋スポーツなる観念から遠く離れたところに位置しているという事を、極めて婉曲に(つまり文学的に)表記してしまっているところが、推 薦するに値するのですね。プロ野球がそもそも現在あるステイタスを獲得したのは、戦後の天覧試合からだと言います。おそらく、そこからメ ディアによる「芸能化」が進行する事になったのでしょう。
 プロ野球選手自身は自らが芸能人とみなされる事を快く思わないのでしょうが、芸能を意識して自作自演するほどメジャ ーになり、純粋スポーツに同一化しようとするほどにマイナー化していくという構造がある事には、気付いている事だろうと思います。
 私が先程から言及している問題はプロ野球のみならず、文学、映画など、日本における文化現象全般に共通する構造の問題なのです。三善氏 などは彼女一流の軽妙な語り口で中央線人(マイナー志向性)と私小説(純粋スポーツ)の相関関係を問題にしている訳です。この文学運動に 身を置く限りマイナーポエットであり続ける事になるのですが、例外的に「私」の物語化に成功した太宰治や中原中也だけが文学史的にメジャ ー化しているのですね。
 昔からよく言われる事に、志賀直哉や太宰のファンは作家志望であってもコケる事が多い、と言うのがあります。先ず、 この問題をクリアしていない人は考え直すべきです。そこには、三善氏の言うところの「甘い罠」があります。
 「日本映画史100年」は映画について研究するビギナーの方には、特におすすめです。ここでも四方田氏が問題としている のは、はっきり「日本映画」の特殊性についてであり、結局、究極的には文学やプロ野球同様に「天皇」の問題に帰着する事を隠さずに語り尽 くしています。私は同じ四方田氏の著作としては「貴種と転生・中上健次」も随分面白く読んだのですが、方向性としては三善氏と同様に、シン ボリズムを回避したところの積極的なマニアック志向(無名性への回帰)が主張されています。中上健次は、三島以後('70年以後)の言語表現 の領域において、ポストモダン系の知識人から特権的に評価された作家でしたが、彼らにとって中上は無名性を体現する最良の存在としてあっ た事に意味が与えられたのですね。基本的には、今も、文壇はそのライン上にあります。
 これから先、JポップやJ文学が日本という物語から遠く離れて、亡命作家としてどこまで逃走し続ける事が出来るかは 未知数ですが、英語が日本の第二公用語となる頃には真の亡命作家の一人や二人はいて欲しい、というのがあるんでしょうね。

要チェック『肉弾時代』 iroiro_1 2000年4月30日20時17分(ヤフー掲示板三島より)
 (*_*)さん ユーミンがボルナレフファンというのは本当みたいです。
フェリーにとヴィスコンティで言えば、三島はヴィスコンティですよね。ユーミンのフェリーニは、筒井康隆の「ダンヌンティオに夢中」から 来ているな、という感じですね。大田出版から復刻版が出た宮谷一彦の「肉弾時代」を一度チェックしてみて下さい。三島と思しき世界的大作 家Mが魔界からの誘惑者となって、複数の女性達を愛の奴隷にしています。

国際派の条件 iroiro_1 2000年4月23日16時53分(ヤフー掲示板三島より)
 文体については好みは別として、美文という評価は定着しているように思います。「肉体」に関してはある特定の女性に は性的魅力を与えているようです。性愛の世界には平等も普遍性もありませんから、「愛」という抽象的概念には初めから肉体が喪失している のです。日本人やフランス人は、いわゆる優男好きが多数派を占めると思われがちですが、戦後にあってはアメリカ文化の影響は無視できませ んよね、「肉体」とはすなわち「アメリカ」の事で、三島の肉体もメディアサイズの抽象的な肉体を狙ったもので、「個性」よりは「様式」に なろうとしていると思います。
ムナ毛についてもそうですが、60年代にはジェームス・ポンドを始め、セックス・シンボルの紋切り型として「ムナ毛」は あったように思うのですが、異性として三島が好きだという女性の声を、私は実際に耳にしているので(@_@)さんも自信を持ってくださ い。国際的プレイボーイとしては、あの「肉体」が必要となるのでしょうね。マーケットの問題でもあります。

●色男NO.1(141) 題名:芦屋及び宇治取材旅行、新企画予告編
 みなさん、ごきげんいかがですか。私がスタッフAこと色男NO.1です。
 私がこの文学の国掲示板に書き込みするのは随分久しぶりになってしまったのですが、それというのもG.Wを利用して、芦 屋と宇治の日帰り取材旅行などして多忙を極めていたからです。昨年来、長らく予告されてあった旅行の国コンテンツ「宇治東山通信」の宇治 編をようやくUPする運びとなりました。お待たせしたファンの方々には大変申し訳なく思っています。
 それから、この文学の国においても、本格的谷崎潤一郎HPを開設する事がスタッフ会議により決定され、その一つのコ ーナーとして、「芦屋市と谷崎」を用意する関係から、私は芦屋にも足を運んで参りました。大正12年9月の関東大震災がきっかけで、谷崎は関 西へ移住、およそ26年の長きに渡って関西に居住する事になったのですね。それが、いわゆる古典回帰の時代で、「源氏物語」を意識した生活 を実践し、3番目に結婚した松子夫人を紫の上になぞらえたりしていて、かなりゴージャスだった訳です。「源氏」など合計3回も現代語訳して います。大谷崎の死に際して、三島由紀夫は「谷崎朝時代の終焉」という追悼文を書きました。三島にとって、谷崎は王朝文学であり、アメリ カンニューシネマの傑作「卒業」のD.ホスマンのように女三宮を強奪すべき対象としてありました。

「私は、光琳、宗達の芸術と「細雪」との親近感を考える。つまり世間で考えられているのと反対に、写実主義と装飾主 義とは盾の両面なのだ。」(「小説家の休暇」より)
「私は近いうちに、無知無識も恐れず、私の目から見た日本文学史を書くつもりであるが、そこでは江戸期の文学を近松、 西鶴、芭蕉に代表される在来の史観をくつがえして、再び馬琴をその代表的作家として復権させようという意図が含まれている。」(『「蛇姫 様」とその作者』より)

 以上の文章で三島はかなり重要な事を「告白」していると思われますが、私のHPではその辺の事情を、どこよりも深く、 井戸さながらに掘り下げてみようと思ってますので、御期待下さい。
 例えば中上健次は三島の享年に接近する程に、その影響下に吸収されてゆく事に抵抗しようとして、第二の谷崎たらんと しましたが、志半ばにして46歳という若さで他界してしまいました。三島以後の日本文学を考える上で、この出来事はこれ以上ない濃度で問 題性を集約していると、私は見ています。
 どうも、そのあたりに「出口」があるらしいのですが、現時点では確かな事は言えません。あるいは、この問題に首を突 っ込むと「書けなくなる」恐れがあるらしいのですね。何だか「リング」の貞子の呪いのような話になってきましたが、問題文脈について無知 でいる事、呪いのビデオを見ない方が、延命の鍵と言えそうです。
 文学というのは、頭より体の方が大事。特に作家志望の方は心して谷崎に取り組まれるといいでしょう。
 谷崎はロマン派にありがちな「病気」を売り物にしなかった。これは象徴的な事ですが、三島以後、作家は皆、健康にな ってやたらとスポーツなどもして、もう誰も「病気」を特権化した選民意識を振りかざさなくなったのです。
投稿日 : 2000年5月13日(土)18時01分

満員御礼  iroiro_1 2000年5月18日7時17分(ヤフー掲示板三島)
 私が不在の間、このトピックがかくまで盛況を見せているものとは予想だにせず、久しぶりで訪問してみて、全く驚嘆し ています。
 皆様の談論風発を私も面白く読ませて頂き、あと、2,3の補足を加えておきたく存じます。
 中村敦夫は'71年の映画「儀式」に出演していますが、その役は異常な優越感の塊のような男でなければならず、監督の大 島渚がキャスティングについて考えている時に、ちらりと「三島」の存在が頭をかすめたと言います。それから、ほどなくして三島は死にます が、大島は魔界人に魅入られて、あのような「怖い」人になってしまったようです。ちなみに、緒形拳は「MISHIMA」に出演したのと前後して、 与謝野鉄幹や檀一雄などを演じ、イメージが固定せぬようにバランスを保とうとしていますが、それ以後の経緯から見て、それが成功している かどうか・・・・。
 ハリウッドでは、ターザンやスーパーマンを演じた役者は、そのキャラクターの呪縛から抜け出せずに、駄目になってし まうジングスがありますが、日本の芸能界では、「三島」役はちょうどこのターザンやスーパーマンにあたるらしいです。
 三島とファシズム、あるいはカルト宗教との関係について問題化する場合、必読と思われる文献がいくつかあります。

「政治的人間とはどうあるべきかという考察が、つぎつぎと私の心の中に生まれた。私は何かといふと、私はニヒリストで ある。しかし幸ひにして、私は小説家であって、政治家ではない。」 「美の襲撃」より
「『美』がいつも相対主義的救済の象徴として存在する(略)美は、ともすると無を絶対化しようとするニヒリストの目を 相対性の深淵を凝視することに、連れ戻してくれるはたらきをするのである。」 「新ファシズム論」より

 三島は、共産主義が全体主義に結びつく理論的必然性から、政治における理想主義の害悪を指摘し、ユートピニズムに結び つくあらゆるイデオロギーを批判している訳です。渋澤龍彦はアンチイデオローグとしての三島という事を言っていましたね。
 エロティシズムと人間性の解放の問題は、あくまで異なる次元の問題であって、極限すればエロティシズムとは自己犠牲 の問題であり、現在多発している少年犯罪のニヒリストの群像は、絶対者と倫理的価値を欠いているためにエロティシズムと同列に論じる事は 出来ず、また短絡的に父性原理を恐怖政治と結び付けて、人間性を管理する事でしか犯罪の抑止もない、という思考は三島の真意ではありませ ん。
 少年法の改正なども検討されているようですが、それはそれとして意義ある事としても、根本的にニヒリストを救済する のは、政治や法秩序の問題ではないと言う事です。

色男NO.1です 2000年5月20日15時54分(ヤフー掲示板にて)
 みなさん、はじめまして。私が色男NO.1です。
 私にとっての守るべきものとは「日本」であり、守るということは「剣」の原理である、とは三島自身のコメントですが、 守るべき「日本」とは失われた「日本」=未だない「日本」であり、かつて存在した事のないものです。日本史の特定の時代を理想化するもの ではありません。
 「豊饒の海」は本質的に第3巻で完結しており、三島死後に生き残る本多に関する描写も、あのように残酷になってきま す。「天人五衰」は未来小説であり、'70年安保を見据えたところの「追跡小説」としてありました。三島にとっては、戦前、戦後の連続性を強 調する事は、'70年の断層を強調する事と同じ内容を意味しています。ビクトリアンコロニアル調の邸宅は、植民地の長官公邸であり、それを昭 和34年に造営する事は、サンフランシスコ講和会議後も日本は未だ占領下にある事のイロニーの表明としてあります。

少女漫画に夢中 2000年5月20日16時17分(ヤフー掲示板にて)
 姫野カオルコの「ガラスの仮面の告白」(角川文庫)作中において、ヒロインの愛した男たちの名前が羅列してあります。
 アレックス・マンディ、岡田真澄、津川雅彦、アラン・ドロン、セルジュ・ゲンズブール、岸田森、石橋蓮司、桑原和夫 (吉本新喜劇)、ミッシェル・ポルナレフ、柴田錬三郎、野坂昭如と続きますが、結局究極の男性、それまでの男性は彼のダミーに過ぎない男 性として、仮名を用いて、告白しています。三島由紀夫は、少女漫画的感性にさえ、フィットします。

エロティシズム iroiro_1  2000年06月03日, 15時28分 (ヤフー掲示板より)
 三島由紀夫映画論集成(ワイズ出版)を読んだ。

「血の問題でもね、初め人を殺さなきゃ血は見られない。(略)もう血がそんなに欲しかったら、自分の血を流せばいいじゃ ないか。それから何か、思想が180度転換しちゃったんですよ。」
「癌やなんかみたいに血を流さない死はとっても怖い。」

 三島は大島渚との対談(S43)でこのような事を語っているが、単なる死ではなく、エロティシズムによる神聖な死のため に「血」が必要とされている事が理解されます。20年ぐらいかかって「切腹」という結論が得られたとも言っているが、昭和天皇はここでは完 全に利用されている。ヤマトタケル、殺される王子、南朝、2.26・・・・・。
 それらの集大成として「三島」が創造され、完成して、以後、何人も模倣する事を禁じられた。希望は過去にしかない、 というのは三島の愛用句といっていいほどのものですが、これは「絶対」は過去にしかないと言い換えてもいい訳です。

演技された難解さ iroiro_1  2000年6月17日 16時19分(ヤフー掲示板にて)
 「斬」は未読です。どの本にあるのか教えて頂ければ幸いに思います。
 三島は、殺される思想はキリスト教で、殺す思想は共産主義だとも言っています。演技説や真贋説など様々な見解があり、 「死」が初めにあったとして、その動機まで詮索するのは文芸批評を逸脱して、精神分析の領域にまで侵入すると思われますが、このような還 元主義を三島はあらかじめ批判しています。
 「天人五衰」のラストシーンはあまりにも相対主義的なものですね。未来はおろか過去までも相対化される。そういった 世界解釈の小説としての「豊饒の海」と「絶対」の問題が、三島をかくまでに難解なものにしています。

形について iroiro_1  2000年6月17日16時44分(ヤフー掲示板にて)
 先日、NHKで三島特番「最後の歌舞伎」を見た。番組を見た人のために、参考までに以下の三島文章を引用しておきま す。
 足穂は実に「弥勒」になったのであるから、この聖者を前にして、われわれは人間であることの誇りを回復することさえ できる。
 世間や俗物がどうあろうと、歴史や文化の中へ埋没する決意をしたものが、実は最も飛翔する人間になる、という秘密を 学んだのであるから。
寺山 しかし文化の概念が変質していくということは認めざるをえないでしょう。
三島 絶対に認めないです。いくら変質したって、フォルムの形成意欲は変質しない。これは芸術の宿命でしょう。
寺山 フォルムを要求する心象は変わらなくても、文化の形態そのものは変わります。変わるから形なのだ、といえるでし ょう。
三島 それは絶えず変わっていくでしょうけどね、単なる流行とか表面現象にすぎないでしょう。
寺山 不滅なんてない。
三島 不滅というのはフォルムですよ。
「エロスとは抵抗の拠点になりうるか」
寺山修司との対談より
「作家論」より

●色男NO.1(149) 題名:まずは簡単なご挨拶まで
 ^_^;さん、(__)さん、)^o^(さんこんにちは。私が色男NO.1です。
 大江健三郎は、三島の一連のパフォーマンスをオリエンタリズム、即ち西欧諸国から見た日本観をそのまま顕在化させる事で、自己の文学を 営業的に宣伝することに成功したというニュアンスで批評していますが、三島文学に関しては方法論において類似性が指摘できます。大江の三 島観としては、「最後の小説」「同時代としての戦後」(両著とも講談社文芸文庫)を読まれるとよいでしょう。
 川端が三島の戦後文壇に復帰する上で功のあった事は、良く知られた事実ですが、川端が最初に読み、評価した三島作品 として「煙草」があります。この作品が昭和21年に鎌倉文庫の「人間」に掲載され、三島は戦後派文学の最も若い作家として再スタートをはか ることになる訳です。
 村上春樹は芦屋出身であり、日本文学のあまり良い読者ではない、と自ら語ってはいるものの、「細雪」は読んでいるよ うです。文章の細部だけではなく構成など、よく読めば、村上春樹は日本文学の遺産をきちんと継承している点も理解されることでしょう。
 谷崎潤一郎サイバーミュージアムは、これから次々とコンテンツをUPさせていきますので、皆様も、様々な意見を書き 込みして頂きたく思います。
投稿日 : 2000年6月17日(土)15時49分

●色男NO.1(151) 題名:有名人NO.1は誰か?
 (__)さん、こんにちは。私が色男NO.1です。
 「谷崎潤一郎サイバーミュージアム」のコンテンツ、なかなかUPされないのは私の多忙のせいで申し訳ありませんが、気 長にお待ち下さい。芦屋市については記念館や谷崎旧居、倚松庵などの写真も見られるように考えております。
 大江健三郎インタビュー読みました。ノーベル賞以後のものですね。知名度ということで言えば、ドナルド・キーンが世界 で最も有名な日本人は明治天皇でも徳川家康でもなく三島由紀夫である、と言っています。勿論、あの「事件」以前にも日本を代表する作家と して知られていました。安部公房は、冷戦以前、東側では三島以上に知名度があったのではないでしょうか。ノーベル賞でも、大江より本命の 候補であったといいます。安部公房の無国籍スタイルは満州と引き揚げという角度から読めば、必ずしも前衛性ばかりを意識せずに住むと思い ます。映画の国掲示板の方に(最近、豪傑が余り書かないので)、私の谷崎に関する文章「若さにジェラシー」がありますので、よろしければ、 そちらの方にも目をお通し下さい。
投稿日 : 2000年6月24日(土)18時08分

●色男NO.1 題名:若さにジェラシー 投稿日: 2000年6月24日(土)16時31分
 みなさん、こんにちは。私が色男NO.1です。
 谷崎潤一郎が大正期に映画製作に関係したことをご存知の方もいらっしゃると思いますが、当時、映画はまだ「活動写真」 と言って、世間からも西洋伝来の見世物のごときものと軽視されていて、その世界に知識人たる谷崎が深く関与するという事は、一種の「奇行」 と見られていました。
 当時の大スター尾上松之助の忍者ものなど子供の間では大人気でしたが、映画を演劇や舞踏に次ぐ「芸術」の域にまで高 めようという純映画劇運動の批判対象の典型としてありました。歌舞伎や新派劇をそのまま撮影したような、映画文法皆無の見世物に対して、 谷崎はハリウッド映画のパロディーに「女優」を登場させるというアクロバティックな方法を導入して、日本で最初の本格的映画を創造した と、されています。
 当時は、まだ「女形」が主流で、女優という職業はまだ社会的に定着していませんでした。とにかく谷崎は、大正時代に あってはウルトラモダニストであり、今日ではとても信じられませんが、最も「日本的」な風土から遠い作家の一人だったのです。
 谷崎は佐藤春夫と文学史上あまりにも有名な三角関係事件の主人公だったのですが、その事件のきっかけとなった女性を 映像化したいがために、急速に映画の世界に深入りしていったと言います。
 ところが、昭和に入ると、なぜか谷崎は映画界から完全に引退してしまいます。あとに、溝口健二という巨匠が出現しま すが、彼こそはある意味で、映画人としての谷崎の後継者とも呼べるような存在でした。
 語り出せば、随分と長くなってしまう話で、詳しくは「谷崎潤一郎サイバーミュージアム」に譲るとして、谷崎にとっての 理想的な女優とは、一体、誰だったのでしょう。葉山三千子は別格として、戦後の黄金時代にそれを求めるならば、「自分の幻想通りの女が現 実の世界にそのまま化現したと感じたのは、いつぞやも述べたが、『春琴抄』の春琴に扮した京マチ子の場合だけである」(「雪後庵夜話」) と、谷崎自らが認めるように、あの「羅生門」で森雅之から三船敏郎が強奪した女、京マチ子ということになるでしょう。京マチ子によって、 いかにもマゾヒストの女神にふさわしいナオミズムのイメージが映像化され、谷崎はその独占を妨害するであろう男へのジェラシーによって、 回春を企てます。老人の性というのは、もう谷崎の独壇場みたいなもので、サルトルがヴォーボワール夫人と来日した時に、一番会いたい日本 人として谷崎の名をあげ、物故していた谷崎の代わりに松子未亡人に面会したというエピソードは、単なるエキゾチズムを超えて、人間に普遍 的な問題の真実を垣間見せるものとして、印象に残るものです。
 超高齢化社会を迎えようとする今日、この谷崎的喜劇は現実のものとなります。若さ、がいかなる「形」をしているのか、 というのは語るのも野暮ですが、その魅力については、やはり女性に聞いてみるのが本筋というものでしょう。

美少年フェチ  iroiro1 2000年7月9日 16:59(ヤフー掲示板倉橋ファンより)
 皆さん、こんばんは。私が色男NO.1です。^/^さん、倉橋の「英雄の死」という講談社文芸文庫に入っているものでしたよ ね。知性においては互角に渡りあえても、英雄性において女性は疎外されている、というか典型的な美少年フェチですよね。少年のエピソード も、いかにもシンボリックなもので、三島の死を願望するというのは、英雄化を待望するという事、すなわち、老人になったところは見たくな いほどに、美しいという感じですね。私も昔、パタリロが美形になった時の顔に似ている、と言われたことがあります。
 (*_*)さん、倉橋とユーミンは三島をめぐる三角関係ですね。ユーミンも三島の大ファンであり、そのレクイエムを歌いつ づけて28年、みたいな人なんです。そして、私はユーミン教宣教師でもあります。

●色男NO.1(157) 題名:色男の歴史学講義 初級編
 みなさん、こんにちは。私がスタッフAこと色男NO.1です。
 私の極めて個人的な生活のメニューを消化するために、この掲示板に長らく書き込みできなかったことを申し訳なく思い ます。夏は海とばかりに海水浴にも2度ばかり行きまして、手の回らない背中など、日焼け止めクリームを塗ることが叶わず、火傷のような痛ま しい状態になっており、顔も見るのも無惨でせっかくの色男ぶりが台無しとなって、私のファンの女性たちを大いに落胆させております。
 夏は夜。打ち上げ花火にお化けと、三島シーズンとなっていますので、少しばかり渚のシンドバッドについて言及してお きましょう。
今年は没後30年の節目という事もあり、三島関係資料がほとんど定期的に新発見されマスコミを通して公開されている観が ありますが、今回は、敗戦翌日のハガキが三島の後輩によって学習院院史資料室に寄贈、全文が「文学」(岩波書店間)に掲載されるという事 で、これまでの意味合いとはニュアンスが異なり、文面も「軍人の使命は終りました。文人の使命今始まります。」と三島本を一点も出版して いない三島ヴァージンの岩波がいかにも好みそうなもので、隠蔽された昭和精神──三島の歴史上における位置づけは急ピッチで進行している 具合です。角川文庫の最新刊「美と共同体と東大闘争」には夏の名作100と同様の帯がかけられて書店店頭にささやかに陳列され、東大全共闘が まさに敵陣営最大のイデオローグと位置づけるところの三島を革命戦線に吸収併合せんとして、執拗に誘惑、共闘を呼びかけますが、これに応 えて、あの歴史的な名セリフ「諸君がもし天皇と一言したならば、私は諸君らと共に安田講堂に閉じこもってあげよう」が出た訳ですね。三島 事件が後に、全共闘を吸収するような事態さえも起こるのですが、これで完全に政治の季節というものは終焉したのです。つまり、三島の死 は、彼自身の存在とともに国家革新の原理にエンドマークを打つ事に成功したのです。これからの社会がインターネットの匿名性に象徴される ならば、「三島」の名前は永遠にその外部にあり続ける事となるでしょう。そして、東大全共闘はそれ自体が一つの人格であるかのように個有 名を拒否し、匿名のアルファベットで表記されるばかりなんですね。全共闘も、31年前のあの時、「天皇」と一言すれば、「名前」にありつけ たかもしれないのですが、「名前」は常に「歴史」と共にありますが、名付け得ないものは、時間の持続に耐えられません。空間思想としての 「解放区」に「三島」という名前は入る事が出来ないのです。
 我が「ザ・ラスト・パラダイス」はインターネットのHPの一つとしてあり、そのスタッフたる私も豪傑もパーシーも、 A、B、Cと記号化されるだけで、歴史や固有名の同一性の円環から疎外された非在であり、いわば「最終教祖」(彼こそは実体であり名前そ れ自体であります)の宣伝広報部隊要員にしかすぎません。
 「最終教祖」こそが名付けの神であり、「最終教祖」と一言すれば、その言行は有意味化され、ありがたくも「名前」の 恩恵にあずかる事を許可される事となるのです。ハッピーサマーウェディング!
祝福された神の花嫁たちよ、君たちの「名前」は永遠であり、その存在は常に神と共にあるのです。
投稿日 : 2000年7月30日(日)16時46分

美少年、かく語りき(2) iroiro_1  2000年7月30日 19時17分 (ヤフー掲示板倉橋より)
こんばんは、私が色男NO.1です。これは決まり文句で、私の書き込みはここから全て始まります。
(^.^)さん
 三島文学は入り口が無数にある迷宮の如きもので、すべての人にとって最初に読むべき本というものを私は紹介できませ ん。Aさんには「仮面の告白」、Bさんには「潮騒」という風にその人の内面にもっともヒットする要素を持つ作品をまず最初に入り口として 薦めるようにします。
ちなみにユーミンは「仮面の告白」がお気に入りのようです。
^/^さん、(^。^)さん
 少年のようなエピソード、つまり、三島の英雄的な死を待望する人々に関するエピソードは、案外、調べてみると多いの ですよ。彼の文学、あるいは行動は死によってのみ完成する、として、生前の三島に自殺を勧告していた某評論家までいますからね。
虚実どちらが価値あり、というのは古いリアリズム信仰にとらわれた文学観で、倉橋由美子にしても、三島の徹底的な人工 性に精神のある究極の形を見たのではないでしょうか。「作品」が結果として「作者」を創造する事もあるのですよ。

パーシー流読書の方法 iroiro_1 2000年8月5日19時41分(ヤフー掲示板三島)
 パーシーは「天人五衰」を再読して、その同一の物語を作り直したものとしての「燃え上がる緑の木」(大江)を再発見 したみたいです。透と絹江を、新しいギー兄さんとサッチャンとして、読み直す作業に熱中しているのですね。「懐かしい年への手紙」では、 「僕」が主人公(あるいは副主人公)として語り手でもあったのに、「緑の木」では「K叔父」というワキ役として登場しているに過ぎませ ん。パーシーには、この「K叔父」が本多と重なり合っているようです。

久しぶりです 投稿者: iroiro_1 2000年8月13日 午後 8時39分
 こんばんは、(@_@)さん。私が色男です。
 確かに、安易な英雄待望がまかり通っていますね。文芸批評家の間では、三島の性的人間としての素顔を徹底的に暴露す ることで、その武人伝説を相対化しようとする向きもありますが、この人ほど「個人」にスポットがあたって「作品」が迷惑している作家も珍 しいでしょうね。現代の日本は確かに精神的に不幸なんであって、何か共同体を祝祭空間に活性化するトリックスターを待望しているのも、ま た、事実なんです。80年代はまだよかった。三島もポストモダンごっこでお茶を濁せたから。
 この人は、今こそ、「危険な思想家」の真価を発揮しているとも言える訳ですね。
リアリズム信仰の黄金時代は19世紀で小林秀雄も言うように、小説ジャンル自体が19世紀の産物なんですね。最近、TV見 てると、何かやたらと「四谷怪談」を取り上げている。化政期と現代が相似形とも言っているようです。「四谷怪談」は「忠臣蔵」と二本立て で上演される事が多かったようですが、両方とも史実と比べて大嘘ですよね。それとも、模倣犯が出ればそれは「真実」になっちゃうんです。 ホラーとか本当は怖い童話とか、倉橋もそれを先取りしている点はありますね。しかし、フィクションというのは最終的に作者の責任は問われ ない。
 「あんたの小説読んで、私は破滅した。どうしてくれる!」と言われても、作者は知らんぷりして逃げるわけですよ。

大石は男、お岩さんは女  投稿者: iroiro_1 2000年8月28日 午後 5時27分
 みなさん、こんにちは、私が色男NO.1です。
 (*_*)さん、「忠臣蔵」と「四谷怪談」の二本立てというのは、江戸後期の芝居小屋における歌舞伎興業での事で、この二 作品は男と女・忠義と裏切り等、様々なコントラストをはらんだ演出で対をなすもの、とされていたようです。妙な例えになりますが、2.2 6と阿部定みたいなものですね。それが、映画でも先祖帰りしたみたいに、両作が連関する一つの世界観の表裏のように構築されたフィルムと して「忠臣蔵外伝四谷怪談」('94 深作欣二監督作品)があります。
 倉橋は「毒薬としての文学」の中で、「男性化の願望、これが精神分析的にみた私の文学の秘密なのです。」と記してい ます。この人は、明らかに「女性的」なものに価値を見出し得ず、自らの内なる敵と認めて、それを駆逐しようとさえ、しています。あたかも、 三島がギリシャ旅行において、自らの感受性を最大限に消耗させて、完全なダンディズムを目指したように。倉橋には、武田泰淳や埴谷雄高の ような戦後派作家は、本質的な「女性的なるもの」として批判の対象としてあり、渋澤龍彦のような美少年は、三島のような英雄の寵愛を得ら れる存在として、憧憬とともに仰ぎ見られているのです。女しかいない世界に、もし唯一の男性が出現したとしたら・・・というようなSFが 倉橋にはあったように思うのですが、美少年足り得ない以上、老人であることをよしとする、と言うのは、彼女独特のものですね。

●色男NO.1(164) 題名:色男、花街を行く 2000年8月28日 18:28
 こんにちは、みなさん。私が当「文学の国」管理人にして、ユーミン教宣教師こと色男NO.1です。
 まだ残暑も厳しく、水不足も懸念される中、皆様はいかがお過ごしですか。
  (^^ゞさん、お久しぶりです。三島研究での御活躍、特にHPでの発言はいつも楽しみにしています。没後30年の今年は 三島関連本の出版ラッシュが続いていますね。私も可能な限り、目を通したいと考えております。
  (^^)さん・(^^ゞさん、こんにちは。御師弟おそろいでパーシーと仲良くして頂いてありがとうございます。(^^)さんは 太宰研究を志望されているのですね。全く新しい研究の展望を期待しています。
  私は、個人的な事柄に属するのですが、休日を利用して、京都は島原周辺に遺構のある江戸時代の揚屋建築で現在は重 要文化財となっている「角屋」および、置屋の「輪違屋」・「大門」を見てきました。
  「大門」は自動車衝突事故により破損し、改修工事をしていて、残念ながら、その全貌を垣間見ることは出来ませんで した。「輪違屋」は内部見学不可で、外からしか見られませんが、「角屋」の方は一階が美術館として一般公開されています。島原は江戸幕府 公営の日本最古の遊郭があった場所で、後に祇園や先斗町が花街として興隆すると衰退してしまうのですが、かつての栄華を偲ぶものとして、 前述した建造物が保存されているのです。芸妓や太夫というのは、現代からは想像も出来ないほどのスターとして、全男性の憧憬の対象として ありました。
 芸妓の中でも「名妓」と呼ばれるような女性が、いかなる存在であったか、谷崎の「青春物語」から引用してみることに しましょう。
 「上は貴顕シンシンから下は我々のような文学青年に至るまで、(略)唯一の浪漫的な存在であった。今の女給やダンサ ーや映画女優などの役目をしたものも芸者であるが、しかし名妓といわれるものの人気の素晴らしさと、見識の高さと、社会的地位とは、今の 第一流のキネマ・スタアを持ってきても遥かに及ばないであろう。」江戸から明治にかけては芸者が占めていた地位を、大正に入っては女優が 奪い、昭和に入って女給(現代でいうところの高級クラブのホステスの如きものか)に取って代わられる、という事らしいですね。年齢で言う と、20歳までの若い芸者を玉代(ギャラ)が半分というので、「半玉」と言い、いわゆる「舞妓」と同じ物で、現在では京都でも50〜60人程度 しかいないようです。
 私は、勿論「お茶屋遊び」というものを経験したことはありませんが、現在でも、一見さんお断りで昔ながらの伝統が生 きているのは、言うまでもありません。偽物の「なんちゃって舞妓」は京都の観光客が有料で衣装を時間単位でレンタルして、しゃなりしゃな りと歩いているものですが、厚底サンダルも花魁道中を連想させて、あれも一つのコスプレなのかと思ってしまいますね。

私見など(ヤフー三島) 投稿者: iroiro_1 2000年10月01日 午後 9時41分
 みなさん、こんにちは、私が色男No.1です。(+_+)さん、はじめまして。三島作品では、小説を読まない主人公が出て来る 「潮騒」と「剣」など、いかがですか。両作の登場人物は純粋に肉体的存在としてあり、森田必勝に相通じるものがあります。体を鍛えた理由 については、(._.)さんのおっしゃるような事情があったとおもいます。映画「人斬り」の脚本が橋本忍で、司馬遼太郎を参考にはしています が、直接の原作という事ではないようです。
三島がオナニストであるという見解については、私は(._.)さんに同感ですが、ただ私としては、オナニストの社会化以前の 幸福な自意識が園子体験によって、第2の誕生を促されるという、同時代的には戦後派風の実存主義的な読み方をなされた事もあって、やはり三 島はオナニストとして自足したのではなく、[不在]と入れ替わるべく、[肉体]が現実参加の戻れない橋になっている要素を見逃してはならない と思います。単なる切腹マニアであれば、あの人迷惑な劇場犯罪の舞台装置も必要ない訳ですから。自室でやるオナニ─は幸福そのものですが、 公衆の面前でなされるそれは性犯罪なる悲劇への入り口なのです。

●色男NO.1 生者の意味を簒奪する死者 2000年10月14日 15:37(ヤフー掲示板より)
 みなさん、こんにちは。私が色男です。
 不快感を表明した人の中には確かに、三島の「性的人間」としての側面にとらわれたようで、オナニーやホモ、卑俗な意 味合いで「精神的なもの」が相対化されれ不在に逢着した、(何もない月面の海にアポロが着陸したように)と感じ取った人もあったようで す。
 
 吉本隆明などは、生き残った自分たちが「コケにされる」ほどの不毛の存在としての生首というコメントをしていました。 しかし、これらの見解は一部であり、あの事件に政治的意味付けを与えようとする人々の間では、性的な事柄は一切、語られていないと思いま す。あれはリトマス試験紙のような事件で、あれについてコメントする事は、その人のイデオロギーや性癖を自ら暴露してしまうリスクを負っ てしまうという点に特徴があって、ノーコメント組も複数見られましたが、保身の嗅覚の利く人と思われます。
 努力のウソ臭さというよりは、「死」がそのまま生存の批判になるような、生きることの虚偽を告発する装置であった事 が、延命策をとる者に三島への悪意を口にさせたと見るべきでしょう。

●色男NO.1(184) 題名:自然主義と大衆文化(ポルノ含む)
 みなさん、こんばんは。私が当文学の国掲示板の管理人にしてユーミン教宣教師こと、色男NO.1です。ご無沙汰しており ます。
 (^。^)さん、はじめまして。貴重な情報をありがとうございました。
 私も先日、レンタルビデオ店で「白日夢2」を18禁コーナーで発見、谷崎作品は日活ロマンポルノなどピンク映画化されることが多々あるので すが、でも確かに傾向としてはあるように思います。早速、コンテンツのほうも追加情報という事で更新しておきます。
 ここ数年は三島の未発表作品の発見ラッシュが続いて、新聞で度々記事を見かけますが、最近、芥川関係の記事が出てい ました。私の不手際で何日付のものに掲載されていたかメモしておかなかったのですが、読売新聞に「芥川竜之介のわび状」「徳田秋声あて7通 発見」「自殺2年前の出版トラブル」と見出しがありました。
 
 その記事によると、1925年11月に芥川は二年余りを費やして「近代日本文芸読本」(興文社、全五巻)を発行したところ、 発売直後に自宅の書斎を改装したこともあって文壇からは、「大儲けした」と誤解されたとの事。徳田の作品収録に関しては本人の承諾を得ず、徳田が出版社を抗議、芥川が対応に乗り出したとあります。その書簡が、「徳田秋声全集」を刊行中の八木書店の編集者らによって、徳田家に残された資料から発見され、10月4日公表されました。  文学全集にまつわるエピソードである事は一読して誰しも理解され得るところですが、この11月より三島全集の刊行がスタートされるのに先 立ち、現在、筑摩書房から「明治の文学」全25巻が刊行中となっています。三島と明治はともに45年間という永きにわたって、その性格も多様に分裂し、まるでその二つを重ね合わせるようにして、20世紀の最後の年に姿を現すこととなる訳です。
 明治は仮名垣魯文、河竹黙阿弥の戯作から、荷風、谷崎まで、それが同じ一つの時代の中にギッシリと詰め込まれている のですね。
 ^/^さんが教えてくださった漱石学会および記念館の不在というエピソードは私も初耳で驚きましたが、アカデミーと非ア カデミーという観点から考えれば、漱石は近代文学研究という制度の外部にある、という具合にも見えて、今回の全てが同居する明治全集が改 めて、意味を持つように思われます。
 三島全集の方でも、純文学とエンターテイメントという従来の分類は用いずに、長編と短編をまったく異なるジャンルの 形式とみなす編集に一つの特色があります。
 グルメの国では、私の新しいコンテンツ「焼肉ファンクラブ」が近日中にUPされます。それはまた、語り直される「安 愚楽鍋」たる事を意図するものでもあり、焼肉を一つの形而上学として体系化する事に、私の関心が大いに傾いている事を、今ここで、皆さん に御報告しておこうと思います。

M&Dは旧知の仲  投稿者: iroiro_1 2000年10月22日午後 6時51分
 みなさん、こんにちは。私が色男です。
 「中世 剣」(講談社文芸文庫)収録の安藤武が作成した年譜によると、三島は12歳で太宰の「虚構の彷徨 ダス・ゲマ イネ」を同じ痛みを感得して読んだとあります。そして、「国文学 解釈と鑑賞」11月号に掲載された「対談『十代書簡集』をめぐって 安藤 武──富岡幸一郎」中の安藤発言によると、あの出会いの事前に作家の三島由紀夫だと言う事を教えてくれていれば、もっと話の仕方があった と大変残念がって太宰が言っていたという事を、太宰と交流のあった林富士馬から聞いたと言うエピソードが紹介されています。「含羞の人  私の太宰治」の著者矢代静一は、太宰が、三島由紀夫なんて小説家知らねぇと上機嫌で言ったと書いていますが、今回、太宰の中で三島の顔と 名前が一致していなかったと言う話が出てきて、私はそれまで知りませんでした。ただ、これも松本徹の年譜によると、太宰が山崎富栄と行方 不明になって捜索されていた6月16日の午後、三島は「古今集の古典性」と題して、国学院大で講演していましたが、そのとき、亀井勝一郎も一 緒だったということです。太宰と三島の出会いに同席していた亀井が、太宰の遺体が引き上げられる3日前に、三島と共に講演していたと言う のです。私も根拠はないのですが、なんだか、太宰は三島のことを知っていたような気がしています。
 以上の文章はヤフー掲示板トピックス「耽美のスター三島由紀夫」からの転載です。その一つ前の文章「生者の意味を簒 奪する死者」もあわせてお読みください。
 ところで「文学界」を書店で見かけた方はおられますか?私が、立ち読みしようと足を運んだ際にはいつも決まってあり ません。まさかジリ貧の文芸誌が品切れでしょうか。今年の三島特集はどれも売れているみたいですね。未発表作品はさながら、新作のごとく 世に送り出されて、三島はまるで現役作家であるかのような錯覚さえ起こしかねません。75歳の老大家藤原定家。来年あたりは清水港で源実朝 を発見、養子縁組でもするのでしょうか。(?)

●色男NO.1 はじめまして 2000年11月19日 17:50
 こんにちは、みなさん、私が色男です。(^^)さん、はじめまして。確かに三島は名文美文の宝庫で金閣寺や春の雪など枚 挙にいとまがありません。奔馬や天人五衰のラストなどことに有名ですよね。逆に評判の悪いものだと、辞世の句や英霊の声の天皇批判のリフ レインなどありますね。(^0_0^)さん、はじめまして。昭和初期には文学の革命や革命の文学といったスローガンが声高に叫ばれた事がありまし たが、現在では悲観的な状況が日常的に語られていますよね。新しい文学運動をおおいに期待しています。

●色男NO.1 内向性の城郭 2000年12月03日 午後 5時53分
 こんにちは、みなさん、私が色男です。はじめまして、(@_@)さん。三島の文体に関する印象はとてもよく分かります。 戦後日本人の平易な話言葉とはあまりにかけ離れていますものね。彼自身、戦後に対する違和感をよく口にしていますし、あの文体からは作者 の孤独が察せられて、胸に迫るものがあります。「青の時代」はある編集者が、あれはきみと同じアプレゲールの事件だね、光クラブを使って 日本の「赤と黒」を書いてみないか?と勧められ執筆に至ったという事です。三島は取材をおろそかにしたので失敗したと考えたようです。彼 自身の内面の怪物を処理するに、題材を使いこなせなかったのでしょうね。平野はそうとう勉強していますね。彼にも三島に同一化しなければ ならないような孤独な時期があったはずです。慎太郎はどうかな?

●色男No.1 (199) 題名:私は美しい 投稿日: 2000年12月23日(土)01時44分
 こんばんは、みなさん、私が色男です。(゚.゚)さん,(゚-゚)さん、こんばんは。おっしゃるとおりだと思います。美と行動の 二元論的問題はまさに金閣寺のテーマですね。澁澤龍彦は三島はニヒリストで何も信じていない、イデオロギーは死ぬためのアリバイだと言っ ています。三島は芸術至上主義者として美を客体として信じているように、当初は振舞っていた訳です。
ところが金閣寺において告白するんですね。美は自分にとって怨敵なんだと。柏木は、まさか貴様の口からそれを聞こうと は、と驚く訳で、これは後に三島パフォーマンスは兵隊ごっこでふざけているんだと思っていた、と驚く知識人を先取りしているところがあり ます。
三島は実存的に自分は空虚で存在していないんじゃないかと死者に対してコンプレックスを抱く訳です、英霊になりたかっ た、あれこそは実在だと。美は時空間にたいしてイデアというか偏在しているんですが、それに同一化するとなると個としての自分を消去する 事になるんですね。いよいよ仏教的になって来ましたね。

●色男NO.1(201) 題名:新解釈に期待 投稿日: 2000年12月23日(土)02時17分
 こんばんは、(*_*)さん。 確かにこれまでにない面白い解釈ですね。意地悪く見れば、ドラえもんの最終回として世間に 広まった噂話に似ていなくもありませんが。(笑)
 三島自身に当てはめてみても、少年時代の英雄的な死という夢に対する片思いが25年の永い歳月を経て、最後にかなえ られたハッピーエンドという妙にしっくりくるストーリーになりますね。とても興味深いものがあります。

●色男No,1(197) 題名:津軽は超古代文明か? 投稿日 : 2000年12月22日(金)01時59分
こんばんは、みなさん、私が色男です。
 (*_*)さん、ようこそおいでくださいまいた。津軽の舞台、拝見しました。まだ東北方面に足を踏み入れた事のない私には 旅情誘う極めて誘惑的な写真の数々でした。神秘主義と背中合わせの民俗幻想は、いかにも底辺の国際主義と陸繋がりの雄大さを感じさせてく れるものですね。「津軽」の像記念館は是非一度は訪れてみたい場所の一つです。太宰はこの旅によって故郷を再発見し、それがあのサロン批 判にまで繋がっている事をおもえば、太宰研究の上でも欠くことの出来ぬ最重要の作品の一つとして津軽がある事を自ずと理解される事でしょ う。

●色男NO.1(207) 題名:満員御礼 投稿日 : 2001年1月8日(月)02時36分
 みなさん、こんばんは、私が色男です。随分盛り上がっていますので、他のスタッフともども大変喜んでいます。まずは 「豊饒の海」の評価に関する問題ですが、三島没後しばらくはまともな書評もなく、ほとんど無視されているような状態だったようです。それ でも三島シンパの作家達、川端以外にも澁澤龍彦などは似たような反応を示し、前2巻を戦後最大の傑作と確信するとし、後2巻はやせ衰えた小 説としています。だいたいそういう評価が全体の空気として80年代まで支配的だったのではないでしょうか。
ところが87年に四方田犬彦が中上建次論として五衰の悦びという文章を発表し、物語論的な観点から作品の内的構造その ものを論じる事で「天人五衰」の評価を反転してみせました。その頃からラストのなにもない庭というあの文章が名文として、たびたび引用さ れるようになったと思われます。同時にそこから三島による物語的なるものの終焉という事で呪縛とか袋小路とか言われるようにも、なりまし た。
 長くなって大変恐縮ですが、次に(._.)さん、(^0_0^)さんが問題とされている三島の存在のあいまいさに移ります。これ は三島自身に終生まとわりついた実存的不安が作品にも現れているという事でしょうね。そのような存在論的問題を自己批評として結実させた のが、「太陽と鉄」でしょうね。ここで三島は、自己証明が必ず自己破壊にゆきつくところの筋肉の特質、と書いています。
 最後に(・o・)さんが紹介して下さったように、三島は古書界のスーパースターでもありまして、かなりな高額で取引されて いるそうです。チェックの価値あり、ですね。
 以上、3連続の書きこみは耽美のスターからの転載になります。よろしければ、ヤフー掲示板の方でゆっくりとご覧下さ い。
 (^_-)さん、こんばんは。私はマックはおろかウィンドウズもままなりません。パーシーにいろいろと教えてやってくださ いまし。パラダイススタッフ唯一のコンピュータ担当ですからね。おそまつさまでっす。(笑)

●色男NO.1(213) 題名:サリエリは彼を理解する能力のみを与えラル
 こんばんは、みなさん、私が色男です。 (^^)さんがモーツァルトを例に引いているのをみて、「アマデウス」の天才と努 力の人サリエリとの残酷なまでの対比を思い出しました。サリエリは嫉妬のあまり、あの人を殺し、狂い、精神病院に入ってもなお、あの神に 最も愛された人を呪い続けるのですね。
 「潮騒」と「走れメロス」は古典派、ギリシア繋がりですね。
投稿日 : 2001年1月18日(木)00時52分

●色男NO.1(214) 題名:三島は欲望を不可能化させる装置
 )^o^(さん、こんばんは。まさに同時代人の回顧録といった趣ある書きこみをお寄せ頂きありがとうございます。映画と 三島というテーマは極めて重要です。これまでにも、このトピで指摘が見られたように、彼は真に存在する事を欲するあまり、葉隠を使ってフ ィクション批判をする事になるのですね。彼のあとに生き残り表現する事は、あらかじめ彼によって批判されている訳ですが、文学という制度 を支援する限りにおいて、表現者は一般読者と異なり、彼を批判的に物語体系内に包括せねばならない、というところに現代文学の起点があり ます。
投稿日 : 2001年1月18日(木)00時54分

●色男NO.1(215) 題名:三島解釈の2タイプ
 そして、三島解釈の一つのタイプを(^_^メ)さんとすると、その対極にあるのが(^0_0^)さん、(^.^)さんのタイプになります。 著名なところでは、ジョン、ネイスンも同じグループになるでしょう。三島問題の決着のつけ方として、性的人間の個人的事件と単純に割り切 る事によって、社会および自己への影響力を無化しようとするものです。ですから、この方法をとろうとする限りにおいて、作品も行動も全て が性的問題に還元され、フロイト主義の限界を自らも背負う事となります。しかしながら、その論理的一貫性によって潔い態度を保持し得てい るものと思われます。
投稿日 : 2001年1月18日(木)01時16分

●色男NO.1(216) 題名:私の基本的立場
 それでは色男よ、お前の解釈は如何なるタイプに属するのか明言せよ、と問われる事が当然予期されますので、それにあ らかじめお答えしておきますと、(+_+)さんの考えに近く、千人千様の解釈が同時的に存在し、従って両者の相対する立場を許容する立場として ある、とお答えしておきます。(@_@)さんの三島にユーモアを要求する話など、島田雅彦にも似てとても面白いものだと思います。
 以上、4つの連続する書きこみは例によって、耽美のスターからの転載になります。
投稿日 : 2001年1月18日(木)01時36分

葉隠の死 投稿者: iroiro_1 2001年1月22日 午後 8時18分(ヤフー三島)
 みなさん、こんばんは、私が色男です。葉隠を使ってフィクション批判という事について補足しておきます。まずは高橋 和巳の「死について」というエッセイからの引用。
「これまでの三島氏の行動全部が演戯ということで押し通されて来たわけであるが、生涯をそれで押し通すことでそこに逆 転が起こって、一見誠実に見えていた人々の言動をマンガ的に見させる、そういう悪魔的な嘲笑的意志が今回の三島氏の行動の中にはある。」
 高橋はこの文章を書いて、すぐの71年に亡くなりました。ここでマンガ的にされているのは、新左翼運動の全体です。私 はかつて生の虚妄を告発するものとしての死という言い方もしましたが、事件直後にそう感じた人がいた、という事ですね。

映画も変わった 投稿者: iroiro_1 2001年1月22日 午後 8時43分(ヤフー三島)
 マンガ的にされたのは新左翼ばかりではありません。(^_^)さんが話題に出された高倉健は当時任侠映画で時代精神を体現 するスターでした。構成はほとんど忠臣蔵をベースにした時代劇の様式美で全共闘は劇場にて出入りの道行きで日本刀を持つ健さんに、意義な し!の声援をかけたようです。三島によって、このパターンは完全に奪われてしまい、70年代になって仁義なき戦いなどの実録路線が主流とな りましたが、これも三島的物語の克服を目指したものといえるでしょう。全共闘はシラケテ、健さんは任侠を卒業しました。

万全の備え 投稿者: iroiro_1 2001年1月22日 午後 8時59分(ヤフー三島)
 吉本隆明は80年代に入って、サブカルチャーの領域まで言及して、かつての全共闘世代を驚かせましたが、その方向付け をしたものは三島と見るべきでしょう。「団蔵、芸道、再軍備」という三島エッセイを読むと、サブカルチャーおよびスポーツまで自らの影と するための理論書である事が分かります。影にされた人のクレームに答えるべく、あらかじめ「不道徳教育講座」の中に死後に悪口をいうべ し、という文章まで用意しています。ものすごい計画家ですね。

生前葬 投稿者: iroiro_1 2001年1月27日 午前1時16分(ヤフー三島)
 みなさん、こんばんは、私が色男です。
 (^^)さんの話は初耳でした。天才バカボンが好きなのは知っていましたが。とても興味深い話ですね。というのも、三 島、寺山修司、よど号ハイジャック犯、あしたのジョーには面白い因果関係があるからです。力石が死んで、寺山が70年の春頃に葬式をやりま したね。あれが、デパートの三島展と並んで、三島の2大生前葬だったように思います。赤軍派や寺山にとって三島は力石だったのです。
 (・o・)さん、はじめまして。潮騒は過去5回映画化されていますね。伊豆の踊り子の6回には負けていますが。

●色男NO.1 (218) 題名:私に無意識はない、と三島は言った
 みなさん、こんばんは、私が色男です。(^0_0^)さんの書きこみは極めて本質的な問題を含むものであるとおもわれます。 スポーツ芸能等の他ジャンルへの越境行為についての三島回答は、「似合っても似合わなくても、流行には従うべきなのであります。それはあ なたの最上の隠れ蓑であって、思想よく隠すのは流行の衣装だけだと言ってよろしい。」(不道徳教育講座より)
 同時代人に知識人の道楽と思わせノーマークを得るのに有効性があるみたいです。社会人として生きるうえで「文学」は よけいもの、とはごく常識的な考えで近代的知性は時代遅れになったとか大学解体とかは、つまり当時のスローガンでした。大学生、院生(こ とに文学部)は極言すれば思想犯予備軍、という認識。これについては澁澤龍彦が「私のなかの文学者は、私のなかの市民とつねに敵対してい る。」というふうに簡潔に言っています。若い頭の柔らかいうちに抽象的事柄について徹底的に思考しておくのは、長い人生行路の貴重な宝で 役に立つ時がくるよ、という岩波教養主義ですね。70年代以降、若い世代がこれと決別しました。80年代の最初頃、現代思想がファッションに なりましたけどね。
同時代人として三島に出会ってたら嫌いになっていたろう、あるいは世代によって三島像は大きく異なる、という問題。三 島とは遠くにありて思うもの、です。同時代人は三島にとって役者(しかも脇役)であり、後世の世代は観客です。直接関わらなかった世代の 方に完成品としての三島があります。
投稿日 : 2001年1月30日(火)00時21分

●色男NO.1(219)題名:マゾヒステックな老人  投稿日 : 2001年2月8日(木)23時44分
 みなさん、こんばんは、私が色男です。
 中央公論新社から「谷崎潤一郎=渡辺千萬子往復書簡」が出版されるそうです。谷崎の渡辺宛書簡全200通と渡辺さんの手 紙も初公開されていると言う事です。渡辺さんは谷崎晩年の傑作「ふう癲老人日記」(ふう、の字が出ませんでした)のヒロインのモデルです。 2人の年の差は45歳。松子夫人の前夫との間の子清治の嫁と言う事になっています。系図上は、清治は松子の妹重子の婚家渡辺家の養子になって います。また、婦人公論2/22号には文豪、谷崎が晩年に最も愛した女性、と題した瀬戸内寂聴と渡辺さんの対談が掲載されています。やっぱり、 踏んでくれと言われたそうです。

●色男NO.1(220) 題名:地球幼年期の終わり 投稿日: 2001年2月10日(土)03時30分
みなさん、こんばんは、私が色男です。
 (^_-)さんのおっしゃるように、三島曼荼羅の細部には予兆としての全体が既に既知感的に宿っているような印象がありま す。存在自体が帝都物語の加藤やターミネーターのようにSF的であり、未知との遭遇により人間存在の意味は更新され、言い換えれば認識によ り世界は一変され、70年以前を地球幼年期とするような怪物でありえます。三島は世界解釈の意志によって全てを語り尽くしましたが、ただ一 つ彼の存在自体について何も語らなかった事が、この怪物を増殖させる要因となっています。
以上は、耽美のスターからの転載になります。

●色男NO.1(221) 題名:たけし、暴力、死  投稿日: 2001年2月14日(水)00時38分
 みなさん、こんばんは、私が色男です。(>_<)さんが幼年期の終わりについて理解不能であるのは、仕方ありません。あれ は理解のための前提が必要となります。あれだけ読んでも、ピンとくる人も少なからず存在するものとは思われますが。
 まずは、三島の「小説とは何か」「美しい星」、アーサー、c、クラークの「地球幼年期の終わり」をお読み下さい。世界 の終わり、最後の人間に関する考察が理解の手助けをしてくれる事でしょう。なお、たけしは存在自体が三島のパロディーと言えます。「夕刻 のコペルニクス2」(鈴木邦男、扶桑社文庫)、「たけしの20世紀日本史」(新潮文庫)、あと新潮45の連載でも昨年20世紀の100人日本人編で、 たけしは三島について語っています。
 中上とたけしは、不在の三島をめぐる共犯関係にある、とするのが正しいでしょう。中上は三島の死の年齢と仕事を異常 に気にしていた、というのは柄谷行人など親交あった人々の証言に明らかです。三島の天皇に対するかのように路地を文化起源として小説を書 きましたが、彼自ら自分もある意味、天皇小説を書き続けてきたと、発言しています。パロディー化、矮小化というのは屈折した愛情表現なの かもしれません。
 コロッケや清水あきらが美川憲一や村田英雄に対するかのように。神話化された姿には父殺しにも似た脅迫観念を持ち、 彼を笑いに転換する事で限りない慰みが得られる。アンチ巨人もファンのうち、あるいは全共闘は三島ファンを多く含んでいました。

●色男NO.1(222) 題名:道化と志賀直哉  投稿日: 2001年2月14日(水)00時40分
 大江や石原の屈折具合は相当に根が深い訳ですが、その原因の幾分かは政治的関心が強すぎる事があげられます。三島文 学のユーモア欠如という(^^ゞさんの指摘は文壇でもしばしば言われてきました。ヘンリー、ミラーも、三島がその波乱多き生涯の中で省いてし まった唯一のことは、道化である事だった、としています。学習院の作文指導は子供時代の三島に苦痛を与えるのですが、谷崎の文章読本に救 われたと後年、告白しています。当時は志賀直哉というドグマが支配的で、装飾はいらない、簡潔一番という時代でした。

●色男NO.1(224) 題名:美少女よ、色男に愛されて大人になりな(笑)投稿日 : 2001年2月18日(日)00時39分
 みなさん、こんばんは、私が色男です。§^。^§さん、ようこそおいで下さいました。美青年、かっこいいですね。私もロ マンあふれる世俗的なるものの敵でしかない美青年の一人だとナルシスティックな自負を持っていたのですが、青年ではないかもしれない危険 な年頃になって来ました。(笑)
 美少女はきまぐれな無自覚の悪かな。全身皮膚感覚であるところの無意味な一瞬の夢。私も昔は美少女に愛されたいもの だと、心ひそかに願いましたが、残念ながらご縁がありませんでした。

●色男NO.1(226) 題名:危険な誘惑 投稿日: 2001年2月20日(火)01時04分
 こんばんは、§^。^§さん、私が色男です。励ましのお言葉、ありがとうございます。美男子ダンディズムというのは良す ぎますが、すこしでも近づけるように精進したいです。年に応じた格好良さ、と夭折の美学は相反する観念ですよね。美しいまま死んでしまっ て、もう汚れる心配もない思い出に対して生きつづけていくものは、どこまで美的に格闘し得るでしょう。男にとってナルシズムというのは最 も危険な誘惑です。

●色男NO.1(229) 題名:難しいですね 投稿日: 2001年2月21日(水)3時51分
 こんばんは、§^。^§さん、私が色男です。
 絶対というのは科学の世界、自然界にはなくて、人間の心の問題ですね。キリスト教の神かな。神様は一つと考えると複 数あるのは矛盾しちゃうから、真贋の問題、偶像崇拝の否定とかの問題になっちゃって、異邦人を同一体系に統一しなくっちゃと、なってきち ゃう。日本人はきみの神って僕の仏だよ、と相対化しちゃうんですね。だから絶対って、具体的なものとしてはワカンナイ、何か抽象的なもの かな。

●色男NO.1(234) 題名:これまでのちょこっと整理 投稿日: 2001年2月28日(水)01時28分
 みなさん、こんばんは、私が色男です。ここしばらく、このトピで話題となっているテーマをごく簡単に整理すると、三 島のパロディーおよび再来について、三島が果たして文学的に師を必要としたか、あるいは文壇政治的に川端を攻略しておく事に意味があった のか、などの問題になると思われますが、三島は唯一無二で二つとありえないし、また、必要もないと考える三島絶対主義が一方にあれば、ナ ポレオンがヒトラーに反復するようにヘーゲル歴史哲学的に考察するならば重要な事件や人物であるほどに反復するという見方もあります。
再来がありえないから歴史偽造主義的要請からパロディーが捏造されると考えるか、弥勒菩薩よろしく再来がありえるとし て、その真贋論争が問題になってくるという見方もあります。
師匠問題を次回にまわすとして、とりいそぎパロディー問題が(^_^)さんからの質問もありましたので、少しだけ書いておきます。(+_+)さん、 (^^)さんがほとんど全部お答えしてしまっているので、言わずもがなの補足をさせていただきますと、楯の会=たけし軍団、三島事件=フライ デー事件。大蔵官僚から文学、コメディアンから映画。たけし自身が説明するように既成権威があればあるほど奇行や笑いの起爆力が向上する という振り子現象があります。また、吉本隆明、蓮実重彦らは両者の関係性について言及しています。
 以上は例によって耽美のスターからの転載です。
 (^_-)さん、いらっしゃいませ。(^_-)さんのページについ先日遊びに行かせていただきましたよ。私どものページはネタ は腐る程あるんですが更新する時間がないのが、泣き所なんです。
 §^。^§さん、いらっしゃいませ。たまにふらっと現れてくださるのが美少女チックでチャーミングなんです。これから も、時々ふらっと現れて楽しい書きこみをしてくださいね。もちろん、毎日でも書いてくださっても、大歓迎ですよ。(笑)
 たばこの話しなんですが、現象としてはとても官能的で挑発的です。子供であればこそ、大人に対する批判的意味が含ま れますし、おとなしそうな外見が大人の処女幻想を打ち砕くだけのインパクトがあります。倫理的に見て、注意する事は一見良識がありそうに 思えますが、それは自分の前では吸わないで欲しいという風にも解釈されますし、彼女の人生に責任を負えない立場にある場合、とりあえず今 の問題にすぎず限りなく偽善の匂いがしてきます。頭のいい子であれば、簡単に大人をやりこめてしまって、また続きをスパスパとやる事でし ょう。

●色男NO.1(237) 題名:美の時代 投稿日 :2001年3月2日(金)21時49分
 こんばんは、§^。^§さん、煙草を覚えたのは、随分とはやかったのですね。それで隠れキリシタン時代は終わり、20歳 の今ならどうどうと吸える訳ですね。レオンは私もビデオで見ましたよ。確かに美少女でしたね。昔のフランス映画は美男美女がたくさんいて、 華やかなのに何故かしら深刻でした。美少年なら、これはイタリアものですがベニスに死す、でしょうね。

●色男NO.1(239) 題名:美と流行 投稿日 :2001年3月7日(水)01時47分
 こんばんは、§^。^§さん、私が色男です。
 ドロンとクラウディア、カルディナーレはビスコンティの「山猫」で共演していますね。ビスコンティはお好きです か?
 フェリー二とよく比較されますが、どうもビスコンティの方が一般受けしないようですね。
 ドロンはもちろん「太陽がいっぱい」は極め付きですが、「サムライ」が大好きなんです。あれは何度でも見たい作品です ね。
 煙草を吸ってる自分が楽しいという事は煙草自体の味とか、こだわりはないんですか?自分自身煙草を吸うようなキャラと 思っていなくて、本来吸いそうでないのを吸っているギャップに面白みがあるのかな。服の好みの話しも時流におもねらない§^。^§さんの美意 識が感じられるエピソードですね。

三島の分身たち 投稿者: iroiro_1 2001年3月10日午前 3時18分(ヤフー三島)
 こんばんは、みなさん、私が色男です。たけしは本質的には三島と類似点はないと思います。ただ、表層において、それ がある訳です。貴種流離というのは三島のキーワードの一つですが、たけしはその逆ですね。たけし一人ではとうてい三島の不在を埋める事は できませんが、分業化されるマスイメージとしての三島集団の一人であると思われます。平野にしてもそうですが、マスコミが三島のパロディ ーや再来を必要としている要素はあるでしょうね。

●色男NO.1(241) 題名:美少女を際立たせるキャラは? 投稿日 : 2001年3月13日(火)00時07分
 こんばんは、§^。^§さん、私が色男です。
 ギャップというのは確かにポイントですよね。意外性といってもいい。美少女のパートナーとしては、次のうち、どのタ イプがもっともギャップに面白さ、カップリングの独自性を感じますか?
1、美少年。ふたりは双子のようにも見え、見詰め合うふたりは鏡を覗きこむナルシスのよう。
2、知的中年。白衣が似合うドクター。プラトニズムと紙一重の人形愛。
3、若い野獣。しかも醜悪な!少女は動物園の肉食獣の檻に投げ込まれた可憐な白鳥さながらの陵辱の対象。
4、仙人。女の仏弟子のように自らの美そのものから解脱している生者に対する未亡人であるかのような谷間の百合。
どの組み合わせが物語的なインスピレーションを掻き立てますか?

●色男NO.1(243) 題名:はじめまして、月読さん 投稿日: 2001年3月15日(木)00時51分
 はじめまして、(+_+)さん、私が色男です。
 作家占いは時々遊びに行っては占ってもらうのですが、私はまだM&Dにはなった事がありません。あそこはとても楽しい ページですね。
 中年好きなんですね。この質問のイメージから言うと父性愛包容力あふれる存在というよりは、女性の精神と肉体に対す る即物的な距離感、職業的な冷たさが感じられますが、中年をさらに細分化するとどのようなタイプになるんでしょうか。でも、このドクター も観念の上で美少女を人形に変える事によって、自らの職業病から解放され、溺れてみたい欲求はありそうですね。人形に対してだけ自ら人間 性を回復し得るような存在。美少女でない普通の女性から見たこの中年は理性の権化なんですがね。

●色男NO.1(245) 題名:分業化と分身について 投稿日: 2001年3月20日(火)03時15分
 みなさん、こんばんは、私が色男です。(>_<)さんは分身と分業化について疑問をお持ちになったようなので、残念ながら 私一人の内面のファンタジーではないことを提示しておきましょう。新潮11月臨時増刊の座談会三島由紀夫不在の三十年で、三島空位の時代に 後の人は彼の役割の分業を意識してきたのではないか、と島田雅彦が発言しています。
 主体は分身自身にある場合と、マスコミのイメージ操作の意志にある場合とがあります。文学に関しては様々な研究が今も さかんになされつつありますが、三島の存在論的な意味の読解と他ジャンルへの影響の様相を浮き彫りにする作業をこのトピックでは問題とし ており、サブカルチャーにまで及ぶ言及を積極的にしています。

●色男NO.1(246) 題名:現存する憂国 投稿日: 2001年3月20日(火)03時17分
 映画「憂国」については、ここ数年の間に上映会が行われた事実があるようです。ただ、フィルムの状態はよくないよう です。これから先、解禁される可能性はあります。
(^^ゞさんの同時代の特権的目撃談は興味深いものですね。私は読ませて頂いて、太宰治の駆け込み訴えを連想しまし た。
世代間におけるイメージの分裂については、私は以前このトピックの235に書いていますのでお読み下さい。

●色男NO.1(247) 題名:もてない恨み? 投稿日: 2001年3月20日(火)03時19分
(+_+)さんと同様に三島よりも川端を評価する人に梅原猛がいます。もっとも、梅原は大の三島嫌いなのでかなり感情的に なっている弱みがありますが。
 ミーハーな若い三島ファンの女性は、(^^)さんもおっしゃるように昔も今も多いようです。今日、戦後派作家が読まれな くなってもなお三島がある一定数の読者を維持しているのは、この若い女性によるところが大きいでしょう。

●色男NO.1(248) 題名:オナニスト 投稿日: 2001年3月20日(火)03時36分
 (・o・)さんが引用していらっしゃる「割腹は究極のマスターベーション」という言葉は私が記憶する限りでは、三島自身の 言葉でなく、島田雅彦による発言ではなかったでしょうか。もし、三島自身の作品に上記の言葉をご存知の方いらっしゃいましたら、是非お知 らせ下さい。
 島田雅彦はマゾヒストとオナニストでは後者が偉いと書いていました。
 こんばんは、§^。^§さん、私が色男です。
 確かにこの4人の中では2番が一番美少女を際立たせそうですね。1番と4番はそれぞれ美少女の存在感を希薄化する双璧で すね。3番を選ぶ女性はまずいないでしょうね。(笑)ハンサムなというリクエストは§^。^§さんの好みの反映でしょうね。美少女の人形を男 の子に置き換えるとピノキオみたいなファンタジーになるし、美少女は美少年に通じるというか、1番はアンドロギニュスを連想させます。4番 だと仙人を誘惑する悪魔的美少女にすると面白くなりそうですね。
 ところで川端康成には少年時代に同性愛の体験があったようですね。

●色男NO.1(250) 題名:いらっしゃいませ、珠実さん。 投稿日: 2001年3月23日(金)00時00分
 はじめまして、(^^ゞさん、私が色男です。三島の恋愛小説は女性の心理描写が素晴らしいですね。恋愛ものとは少し違い ますが、「音楽」なんか私は大好きです。
 「永すぎた春」は「美徳のよろめき」とともに当時流行語になって、映画化もされたようです。あれは三島にしては地味 な感じのするものですね。
 「仮面の告白」は「ヰタセクスアリス」+「風立ちぬ」という感じがしませんか。
 太宰については、晩年になってからも家庭の幸福は諸悪の元、僕は太宰治と同じなんだ、と三島自身が言っていますね。

●色男NO.1(253) 題名:究極までお付き合いします 投稿日: 2001年3月26日(月)01時44分
こんばんは、(^^ゞさん、私が色男です。芸能界にいらっしゃったのですね。

 芸能ネタも大いに盛り上げたく考えていますので、よろしくお願いしますね。豪傑にも音楽の国を爆発的に面白くするよ うに言っておきます。文学は三島以外の作家ネタ、現役作家についてもなんでも大丈夫ですよ。ここでは文学の魅力を余すことなく掘り下げよ うとおもいますので、他ジャンルへの越境行為も反則切符は切りません。文学は文学のみに完結するものでもありませんから。
美輪明宏は最近及川光博がお気に入りのようですね。とてもユニークな組み合わせだと思います。

●色男NO.1(260) 題名:愛される現代の表現者のために 投稿日: 2001年3月28日(水)02時19分
 こんばんは、(^^ゞさん、私が色男です。
 (^^ゞさんは美輪明宏とは友達の友達という事になるのでしょうか。笑っていいともに、美輪明宏の次の次くらいには出演 できる可能性がある訳ですね。(笑)珠実さんの次には出番を私に回して下さい。
 ファウストは大好きです。中也もいいですね。現代詩に限らず現代小説もそうですが、読者不在の不毛な観念言語ゲーム みたいな傾向は見うけられますね。先行する作品の引用を用いたり、もはや素朴ではいられないような感じでしょうか。城戸朱里は現代詩のサ ロン化を目論むというか、Jポップの歌詞なんかと一線を画したいのでしょう。その点、歌人の方がメディア戦略が感じられるというか、知名 度の点でも身近な存在ですね。俵真智、林あまり、水原紫苑とかね。マイナーポエットといえば聞こえはいいのですが、私としては読者なり観 客に囲まれていた方がいいと思うのですが。好きか?と問われると嫌いではない、としか言いようがないですね。
うえすぎさん、お久しぶりです。是非またいらっしゃって下さい。お待ちしています。

●色男NO.1(262) 題名:時代をリードする文芸思潮はあるか 投稿日: 2001年3月30日(金)01時25分
 こんばんは、(^^ゞさん、私が色男です。
 なんじゃこれは、という時代の最前衛的なインパクトが10年後に定着して、新しい潮流を形成しているか、あるいは忘れ 去られるべき徒花と化しているかの見極めに、批評性が問われているような気がします。
 町田康は現代の愛される表現者の一人だと思うのですが、太宰的な諧謔の文体に魅力が集約されていますね。一昔前に流 通大資本をパトロンに持ったコピーライターのようには、現在の表現者の生活はおいしくないんですね。そういう時代に町田康の文体が妙には まるというかフィットしているような印象はあります。
 その一方で平野啓一郎のような超レトロな衒学的文体で古典的文学愛好者の心を鷲掴みにするような現象もあって、時代 の中心をなす文化様式というものは、ちょっと見当たりません。
三島に日本国憲法の草案を作成させるというのは面白いですね。彼は大蔵省に勤めていた頃、大臣の演説草稿を書いたら上司に添削されたとい うエピソードがありますね。王朝文学の流麗なレトリックは国家の役人の目にはいかにも無駄なものに写ったのでしょう。