1970年をめぐる冒険
ー初期3部作を中心とする雑感ー

 我々は林を抜けてICUのキャンパスまで歩き、いつものようにラウンジに座ってホットドックをかじった。午後の2時で、 ラウンジのテレビには三島由紀夫の姿が何度も繰り返し映し出されていた。ヴォリュームが故障していたせいで、音声はほとんど聞き取れなか ったが、どちらにしても我々にとってはどうもいいことだった。
「羊をめぐる冒険」(村上春樹)より

 これまで村上春樹さんの文学が様々に論じられる上で、何度となく引用されて来たであろう文章を改めて読んでみると、 私自身のこの作品との出会いの頃が懐かしく思い出された。当時の私は全く季節はずれなロマン主義の病気を煩っていて、いつ回復するものか も知れず、心は深く底のない闇の中で、不毛な存在のはかなさに出口を失っていたのである。世の中全体が何か空疎なから騒ぎに満ちていて、 私に思考する事の反時代性を禁じているように思われ、処世訓と結びついたような若向きのマニュアルの一切を放擲(てき)して、ただ自らの 精神的存在足らん事のみをひたすらに思って、現在とは隔絶し、入院患者か修行僧さながらの生活に内向する事の悦楽を見出していた。
 それまでの私の読書傾向は語らないで、春樹さんの小説(私には「羊をめぐる冒険」が最初であった)の初読の印象につ いて語る事にしよう。その当時の私が不遜にもひらめいた思念の一点、はっきり、この人は私と同じ病気のために隔離病棟に収容されて、しか も私に先んじて退院した人だと、すべてを了解させられたのである。このような読書体験はこれまでになく、しだいに私に現世の風景に対する 視力が回復されてゆくのを感じていた。
 「羊をめぐる冒険」をもって、「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」と続いた3部作を完結させた春樹さんが自営する ジャズ喫茶を友人に譲って、作家を専業とするようになったのは、1982年の事である。その段階にあってはまだ、私は本当に「存在」していな かった。
 透明な非在に過ぎない私は世界であるところの鏡に自らを映して確かめる事も出来ず、人並みの人間的生活の実感の得ら れる事もなかったのだが、春樹さんとの出会いをきっかけに、遅れすぎているかもしれないが、ようやく人生に参加するに到った訳だ。
 それまでの私は、自分を神と同一次元で考えているような一種奇妙な子どもであった。
・・・・・・・・・・・・ 色々と回想を書きつらねてきたが、これは10年以上も前の話であり、私にも春樹さんにもその後様々の変化があった 事は言うまでもない。春樹さんは、「羊をめぐる冒険」以後にも、次々と素晴らしい作品を発表されて、今日では、日本文学を代表する顔の一 人になっておられるのは、説明するまでもないであろう。その作風において当然、大きな発展、成長が見られる訳だが、それはまた作家の創作 環境でもある時代の方で、春樹さんを今日ある姿に誘導したものとも考えられる。はるか若年の私に何か空疎なから騒ぎとも見えた、ポストモ ダンとも呼ばれた時代の中で、春樹さんはそれをある種「世界の終り」という具合に見定めて不動の状態におられたのだが、この10年程の間の 不測の事態にあって、時代は全く異なる位相へ移ってしまい、新しい役者の登場を予期させるが如き作品群へ変化されたのであろう。
 春樹さんの変化、これは充分文学史上の事件足り得る訳だが、私には春樹さんの読者の方で、その事実が無視されているよ うに思われる。春樹さんは、初期三部作において克服しようとした1970年の影、あの狂気を他者とはっきり分離できずにいたあの頃の自分にい つか回帰し得る事を予想して、時代に寄り添う覚悟を自らの内部に育てているのではないか。
 現段階において、ただ我々が理解できるのは、あのポストモダンとも呼ばれた幸福な(!)時代が既に過去のものとなってしまっているという 事実である。

(続く)
記:スタッフA